つんと鼻を突き刺すような匂いに、思わず噎せ返る。ここに来るといつもこんな匂いが待ち構えているので、さすがにもう慣れたつもりでいた。しかしそれは勘違いだったようだ。鼻を抜けて頭にまで毒が回ってきたのか、くらりと眩暈を覚えた。

 視界の隅でごそごそと小さな動きを繰り返す物体に大股で近づく。すっかり真っ黒に染まってしまい、匂いも移っているであろう服の首根を強く引っ張った。ぐぇ、と小さな悲鳴を上げる灰色の瞳とぶつかる。深くて暗い色をしているのに、その奥は透き通るように綺麗だ。

「ぶるぅのー?」
「ひっ、汚してない! 汚してないよ?」

 ブルーノは自分の服を隠すように前屈みになって、両腕を胸の前へ翳した。大方袖口でどこかを拭ったのだろう、そこは後ろからでもすぐ分かるほど黒ずんでいた。
 工作をしようとする態度に苛立ちが募り、ブルーノの前に回り込んでぐっと腕を掴み上げる。 細い腕の癖にがっしりとした肉付きのよい腕はオイルやら何やらでぬるりと滑らかさを纏っていた。

 私に触れられたことに驚いたのか、ブルーノはわっと言いながら尻餅をついた。腕が退けられて見えたシャツは予想通り真っ黒で、あったはずの柄は塗りつぶされている。ああ、これはもう洗濯どころの話ではないな。新しくでかい図体の人間でも着れる服を買ってこなくちゃ。

「うう、ごめんよ
「ブルーノ今日から裸で機械いじってみようか」
「許して!」

 想像でもしたのか、勘弁してくれと言わんばかりに私の腕を揺さぶってきた。さすがにそんなことはしないという旨を伝えれば、心底安心したようにはにかんだ。私はそんなことさせるような人間に見えてたのかよ。
 べたべたな手で触れてくるものだから、腕が大変なことになってしまった。どうせ捨てるのだし、とブルーノが着ている黒ずんだシャツを手元に手繰り寄せて腕を拭う。

「わっ、ななななにして、」
「動くとあぶな」

 い、と口が平らに形作られるのとほぼ同時に私の体はブルーノの方へ傾いた。ブルーノの体が無駄に大きいおかげで体と床がぶつかり稽古をするのは免れたらしい。生憎だが相撲取りになる予定はない。

 ばっと顔を上げるとブルーノの顔があまりにも近かった。どくどくと脈が強く打ちつける。太鼓でもついているのかと疑いたくなる。ふっくらと形のよい唇にそっと自分のものを重ねると、熱がじくじくと伝わってくる。唇も皮膚なので、手と手が触れ合うのとなんら変わりがないはずなのに、どうして特別緊張するんだろう。

 ゆっくりと顔を離せば、目を見開いたまま固まるブルーノの情けない姿。Dホイールとしかしたことないのに、だとか小声で何か言っている。記憶喪失だから分からないじゃないかと思いながら口の中の唾液を飲み干した。

「ぶえっ、ブルーノ口触った? 苦い!」

 馴染みのないほろ苦さがじんわりと口内に広がり、思わず唾を吐き出す。これって飲んだらやばいのかな。責めたわけではないのに、激しく謝罪してくるブルーノに軽い罪悪感を覚えた。勝手にキスしたのは私なのに、気持ち悪がられたかな。

 渡されたミネラルウォーターで念入りにうがいする。あ、すっきり。にっこりと笑いかければ、ブルーノは耳まで顔を赤くさせながら俯いた。

「こんなこと言うのもアレだけど、のって、その。甘いんだね」

 きゃっと花を飛ばす勢いで恥らっているので、これではどちらが乙女だか分からない。少なくとも私は乙女じゃないか。しかし、ただの皮膚が糖分をもっているわけがない。じゃあなんで甘かったんだろう。
 つ、と自分の唇を確認するとぬめりとしつつもよく滑った。

「あ、多分それリップクリームだよ」

えっ、とブルーノの表情は困惑の色に染まっていく。薬用だから大丈夫だろうけど。とりあえず先程渡されたミネラルウォーターを差し出せば、また顔を赤くさせた。ころころ忙しそうに変わる表情をじっと観察した。

Page Top
inserted by FC2 system