シャープペンシルをぎゅうっと握りしめ、は教科書を睨みつける。できるだけ頭を上げず、なんとかその場をやりすごそうと必死にこらえていた。しかし現実は非情なもので、懸賞には当たらないが、こういう場面ではよく当たってしまうものだ。背中に嫌な汗がつうっと流れる。

「じゃあ、ここの問題はさんにやってもらおうかな」

 直前まで無駄に走らせていたノートの筆跡は、なんの役にも立ってはくれなかった。もう時計の秒針が一周したのかと錯覚するほど時間が経ったように感じられる。本日最後の授業だというのに、最後の最後でついていない。勇気を振り絞り、長い沈黙を破った。

「……すみません、分かりません」

 がっくりと首を垂れる。教師は何も言わずに次の生徒を指したが、その無言に含みがあるようで、はさらに落ち込んだ。
 考えなかったわけではない、考えた結果分からなかったのだ。次に指名された生徒の解答を聞きながら、ぼんやりと思考を鈍らせた。

 とんとん、とリズミカルに肩をつつかれる。まだ授業中だというのに一体誰が、という疑問は野暮であるように思われた。の後ろの席に座っている人物など、一人しかいない。
 こっそりと振り向けば、炎のように真っ赤な人物がを待ち受けていた。

 後ろの席の住人、榊遊矢はなにも言わなかった。ただじっと熱い視線を向けてきたかと思えば、いきなり鼻の穴へ指を突っ込んだのだ。突然のことに呆気にとられたも目を瞬かせる。
 はちらりと柊柚子を盗み見た。いつもなら遊矢が馬鹿をすると、真っ先にハリセンを振り下ろす彼女が今日はそれをしてこない。むしろやれやれと言った具合に、遊矢の行為を許容している雰囲気さえあった。視線を戻す。遊矢はあっかんべえと笑っていた。

 そこでようやくは気付いたのだ。遊矢はきっと自分を元気づけようとこんなことをしているのではないか、と。それならば柚子が彼を止めないのにも頷ける。
 ああ、男子にしては可愛らしい顔立ちを私なんかのためにこんなに歪めているなんて。
授業の進行を妨げないためにも、は必死に声を殺して笑った。それを見た遊矢も、誇らしげに頬をゆるめたのだった。


「ねえ、遊矢くん。さっきはありがとうね」

 授業が終わると、は何をするより先に遊矢に謝辞を述べた。遊矢はとぼけてはぐらかそうとしたが、目の前の真っ直ぐな感謝の念からは逃れられずにいた。

「ああ……あんなの気にすんなよ、俺だって解けなかったし!」
「それは自慢げに言うことじゃない!」

 スパーン、と小気味よい音が教室に木霊する。もはや恒例行事となっている二人のやりとりに、一々目を向けてくる者は少ない。女ストロング石島だのなんだのと、軽口をたたき合う二人がには眩しく見えた。

「そうだ、! このあと時間ある?」
「え……特に用事はないけど、どうかしたの」
「折角だから、これを機会に俺のエンタメデュエルをに見てもらおうと思って!」
「遊矢にしては良いアイディアじゃない」

 胸の前で手を合わせながら、柚子はきらきらと目を輝かせた。そして彼女は興奮気味に「そうとなったら準備しなきゃ!」と捲し立てると、一足先に遊勝塾へ駆けていった。
 まるで子どものようにはしゃぐ彼女を見るのは初めてで、も自然と嬉しくなった。今まであまり接点がなかった分、こうして関われたことに素直に喜んだ。

「じゃあ、俺たちも行こうか。遊勝塾まで俺が案内するよ」

 流れるような動作だったために、もすぐには反応できなかった。きゅっと軽く結ばれた右手が次第に熱を帯びていく。
 遊矢くんって天然たらしなのかな。そう思いつつも、つながれた手を振り払うことはしなかった。


 遊矢に手を引かれたまま、その足はまっすぐに遊勝塾へと向かっていた。そして校門を出てすぐに、二人は小さな三人の塾生に見つかった。タツヤとフトシは顔をにんまりと歪め、アユは白い肌をほんのりと桃色に染めた。

「あー遊矢兄ちゃんがナンパしてる! 手までつないじゃって痺れるゥ!」
「柚子姉ちゃんがいながら……遊矢兄ちゃんも隅に置けないなあ」
「あっ……ちが、これは! お前らからかうのもいい加減にしろ!」

 フトシに指摘されてようやく気付いたのか、遊矢はつないだ手をぱっと離した。一人分の熱を失って、の手は平温に戻っていた。
 名残惜しさを紛らわすために、右手をやんわりと握る。
 まだそこに遊矢の手の感覚が残っているような気がして、胸の内がやさしく締めつけられていった。

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