きっちりと揃えられた塾生らの靴が並ぶ玄関を見て、権現坂は小さく息をついた。
 今にも匂い出しそうな靴の中に、ちょこんと小奇麗なサンダルが佇んでいる。その様はまるで雑草に取り囲まれた一輪の花のようである。少しヒールの高いそれを見ていると、どことなくむず痒い感じがした。

 権現坂は下駄を脱ぎ揃え、大股気味に道場へと向かった。上手くはめ込まれていないのか渋い音を立てる引き戸を開けば、道場の中を一望できた。
 中心にいる二人をいかつい塾生たちが取り囲んでいる。室内に満ちた静かな、それでいて隆々とした闘志と熱気がびりびりと肌を撫でた。
 塾生たちに紛れ、権現坂も腰を下ろしてデュエルの行く末を見届けた。権現坂道場の塾生は不動のデュエルを貫く。しかし実践では相手に合わせフィールドを展開して戦うことが多い。そのため塾でデュエルを行う際はフィールドを展開させるのだが、今日はそうしていなかった。
 それはきっと、彼女が原因なのだろう。むさ苦しい道場には似つかわしくない少女が、ぱっと表情を綻ばせてカードを切った。もう勝負は決まったのだろう。手早く捌かれていく無数のカードたちを眺めながら、権現坂はそう確信していた。

「儀式召喚! 降臨せよ、トリシューラの影霊衣!」

 冷気を纏って現れた戦士は、涼しげな目で対峙する決闘者を見据えた。美しい深紅と翡翠のオッドアイに、相手を怯ませるだけの底知れぬ敵意をたたえている。マスターに仇をなすものには容赦しない。そう言わんばかりの忠誠心が目に見えるかのようなモンスターである、と権現坂は身震いした。
 トリシューラの影霊衣の効果により、相手の場のエースモンスター、手札、墓地のカードが1枚ずつ除外される。そこに攻撃力2700のダイレクトアタックが決まり、勝負がついた。

「ありがとうございました!」

 先程まで帯びていた鬼気迫る雰囲気はどこへいったのやら。その一言で道場内はワッと沸き立った。皆、見慣れない儀式召喚に興奮しているようだった。
 権現坂は、すごい、かっこいい、などの歓声の的となっている少女に歩み寄った。少女は権現坂を視界の端にとらえると、嬉しそうに小さく跳ねた。

「権現坂くん、見てたんだ! どうだった? 強かったでしょ、私」

 とん、と拳を心臓のあたりに当て、鼻を高くする少女に権現坂は思わず笑った。しかしその表情はすぐに改まる。

「ああ、そうだな。のデュエルは見事だった……だが、こんな時間まで外を出歩くとはけしからん!」
「私もう高校生だよ? うちの親より厳しいな権現坂くん」

 外は日が暮れはじめていて、既に深い藍色が向こう側の空を侵食していた。
 高校生という言葉が権現坂の胸に小さく突き刺さる。学年は違えど、同じ中学校に通っていた頃はあまり気にすることはなかった。しかしが高校へ上がると、彼女は自分より数歩先を歩いているのだといやに実感することとなった。

「まだ、高校生だろう。昇、嬢を家まで送ってやれ」
「あ、師範! 大丈夫ですよ、私は一人でも……」
「承ったぞ、親父殿」
「権現坂くんまで! ……ああ、もう。じゃあお願いします」

 権現坂とその父親の物言わせぬ瞳に、はとうとう折れるしかなかった。は項垂れながら、私の方が年上なのになあ、そんなに頼りないかなあと小さく零していた。暗くなりすぎないうちにと急かされるままに、と権現坂は道場を後にした。


 夕暮れとはいえ、まだ寒さは感じさせない季節だった。頬をきって流れる風が、空腹を誘うように夕飯の匂いを運んでくる。
 権現坂の足元でからんからんと鳴る下駄の音を拾いながら、二人はゆっくりと帰路についていた。

 初めて挑戦した高さのヒールサンダルは、何度履いても足が痛んだ。それでも少しだけ大人に近づけた気にさせてくれるこれが最近のお気に入りであった。いつもより歩く速度が遅いというのに、権現坂は自分の隣をつかず離れず歩いてくれている。夕陽を浴びてきらきらとオレンジ色に反射するサンダルが、なぜか疎ましいものに思えた。
 こんなものを履いて大人ぶってる私より、権現坂くんの方がずっと大人に見える。
 隣にいる権現坂に気づかれぬよう、小さく小さくため息をついた。重苦しい吐息をぬるい風がさらっていく。そうして気を抜いた瞬間、はがくりと力を失った膝から崩れ落ちた。

「っ、いった……!」
「なっ……、、大丈夫か!」

 転んで跪いているを抱き起こし、権現坂は流血箇所がないか手際よく確認していった。運が良かったのか、少し汚れはついているものの、肌が切れた箇所はなかった。地についた手と膝は熱を持っていたが、じきに冷めるだろう。他に痛みはないとの口から聞き、安堵したのも束の間のことだった。

「あー!」
「ど、どうした? やはりどこか痛むのか!?」
「違うよ! 見て、サンダル!」

 権現坂の肩を借りながら立っていたは、ぶらんと右足を低く上げてみせた。その先ではサンダルの踵部分――ヒールがぽっきりと折れてしまっていた。これではもう履くことはできないだろう。
 今にもべそをかきそうな顔をしながら、は折れたヒールを未練がましそうに見つめた。心許ない足元から伸びる影がいっそう濃くなっていく。権現坂が心底気まずそうに口を開いた。

、お前、それでは歩けないのではないか?」
「……あ、そっか。うわあ最悪。今日は権現坂くんに情けないとこいっぱい見せちゃったな」

 権現坂の前で年上ぶりたいは気分を沈ませる。大人びた年下の友人の隣に並んでも、恥じないような人になりたかったのに。先程の勝利の喜びなどとうに忘れ、今日は厄日だとさえ考えていた。
 の気持ちなど露知らず、権現坂は任せておけといったように力強く胸を叩いた。少なくとも権現坂はのことを情けないなどとは思ってもいなかった。むしろ遠くにいた彼女が、久々に近しい存在に感じられて、嬉しいとさえ思っていたのだ。高校生になったからといって、自身がそう急激な変化を遂げたわけではないと気づいた。それだけでふっと心が軽くなった気がした。

「安心しろ。この男、権現坂、を家まで送り届けるよう親父殿から言われている。――俺の背なに乗るといい」
「……いやいやいやいや! いいよ、時間はかかるけど歩いて帰るよ! 権現坂くんは道場に帰っていいから!」
「暗くなってしまうだろ! そして俺に約束を破らせる気か!」

 また、あのまなざしだ。燃え盛る炎のように熱い思いを宿したそれを前にすれば、もうに勝ち目などない。
 顔と言わず首にまで熱を帯びさせながら、は小さな声で「お願いします……」と呟いた。知り合いに見られることがありませんように。は必死に祈った。


 街灯がぽつぽつと灯るほの暗い道を行く。
 と並んで歩いていた時よりもゆったりとした足取りで、権現坂は彼女の家を目指した。今日ほど今いる場所が人通りの少ないところで良かったと思ったことはないだろう。自分たちを見ているのはきっと、上空を舞う鳥たちくらいだ。

 権現坂との密着に、の心臓がどくどくと早鐘を打つ。こんなに近いんじゃ、私の心臓のはやさも権現坂くんに伝わってるんじゃないのか。そろそろと権現坂の横顔を見ても、彼は普段通り、まっすぐ前を見つめていた。勘付かれていないようで安堵したが、同時に少しは気にかけてほしいという矛盾した感情が湧く。
 目の前に広がる背中を軽く叩いてやる。すると頭上から焦ったような、上ずった声が聞こえてきて、は思わずふき出した。その後、短い沈黙が流れた。

「……権現坂くんの背中って大きいね。なんか、安心する」

 そう言って優しくさすると、権現坂の体がわなわなと震えだす。背負われているは振り落とされぬように慌てて彼のいかつい肩にしがみついた。

「け、けしからあああん! そそそ、そういう破廉恥なことをするな!」
「破廉恥!? 背中撫でただけだよ!?」

 嫁入り前の女子が、と騒ぐ初心な権現坂が、急に子どもに見えた。いくら大人びて見えていたとしても、彼もまだ中学生なのだ。そんな簡単なことに今更気づくなんて。
 ふふ、と声を上げると、「笑うな!」と怒られてしまった。
 ふと背中に耳を当ててみれば、どくんどくんと権現坂の鼓動が聞こえてきた。これなら自分の心臓のはやさも彼の物に紛れて分からないだろう。春の陽だまりのように柔らかな温もりが心地よかった。

 駄目になってしまったサンダルへの未練など、とっくに失くなっていた。私はまだもうちょっと、子どものままでも良いかもしれない。
 ぎゅうっと大きな背中に抱きつくと面白いように取り乱す権現坂を見上げながら、は唇で弧を描いた。

Page Top
inserted by FC2 system