、どこへ逃げた?!」

 広い城内にマハードの怒号が響き渡る。
 城にいるものはその大声に一瞬驚くものの、いつものことかと皆すぐに興味をなくしていった。またマハードの弟子のマナと使用人のが二人してサボっていたに違いない。そう誰しもが予想できるほどそれは日常的なものであった。

 もちろんアテムもその予想はついていたが、これまでにそれらの出来事に関わりを持ったことなどなかった。神官マハードのつながりでマナとは面識があるものの、と話したことは一度たりともない。アテムがいくら驕らない人格者であっても王が使用人風情と気安く話すことは体裁が許さないのだ。
 特には使用人たちの間でも疎まれ、厄介者扱いされている身であった。一介の孤児であっただけの娘が特筆すべきところもないのに王宮に仕えているのが反感を買っているらしい。アクナムカノン王の慈悲がなければサハラの砂の一部になっていたくせに碌に仕事もできない小娘。一部ではそう蔑まれているという。
 鵜呑みにしたわけではないが、そのような悪い噂だけはアテムの耳にも届いていた。

 だからこそ彼は現状をどうすべきか非常に困っていた。けたたましい足音が近づいてくると、とうとうたまらず大きなため息を一つこぼした。そんな主の気苦労など露知らず、マハードは不用心にも一人で城を歩く王に慌てて近寄った。

「王よ、こんな所に一人で何をしておられるのですか。いやそれよりここに娘がきませんでし……」

 そこから先が紡がれることはなかった。不自然に広がるマントと、アテムの両足の間から覗くもう二本の脚。幼稚な隠れ方で追手から免れようとするの浅知恵と、王を巻き込んでしまった罪悪感にマハードは絶句した。
 すっかり言葉を失ってしまった神官にアテムは肩を竦めた。

「……王、その者を」
「待てマハード、今は何も言わないでやってくれ。後でそっちにきちんと返してやるから」
「は、はあ。ではあの馬鹿娘にちゃんと謝りに来るようお伝えください」

 なぜアテムがなどを庇うのか、マハードには不思議でならなかった。しかし深く追求せずに大人しく引き下がったところを見れば、彼もが王に害をなす存在と思ってはないのだろう。
 実のところ彼女を庇ってしまった理由などアテム自身にも分からなかった。ただ臆することなく上の身分である自分に話しかけてきたことで興味が湧いたのかもしれない。

 マントの中に潜む住人にマハードがもう行ったことを告げると、彼女はアテムの両足の間から顔を出した。追手の姿が見えないことを確認し、すぐさま顔を引っ込めてマントから抜け出す。どうやら王の股下をくぐって出てくるほどの愚かさは持ち合わせていないようだった。
 聞こえてくる噂からは想像もつかぬほど、は律儀に深々と礼をする。

「助けてくれてありがとうございます、王。マハード様おっかないからつい逃げちゃいました」
「あまりマハードを怒らせないでくれよ、
「私とマナはちょっと休憩してただけです! ……あれ、私の名前知ってるんですか」

 思わぬ自分の失言に肝が冷える。もしここで噂をよく耳にしているとでも言ってしまえば、彼女の気分を害することになるだろう。どう答えるべきかアテムが思案していることでも察したようだ。彼女は特に気にした素振りも見せず、へらへらとおどけたように笑ってみせた。

「きっと噂とかで知ったんですよね。あれ本当のことだから、気を遣わなくていいですよ」

 私だって頑張ってるんですけどね、いつもそれが裏目に出ちゃうんですよ。集めたごみはひっくり返して一からやり直しになるし、干した洗濯は風に飛ばされて洗い直しになるし。こっちは一生懸命やってるつもりなのに、それで毎回お小言貰っちゃ休憩したくもなりますよ。

 自分の犯した失態を他人事のように指折り数えるにアテムは笑いを堪えきれそうになかった。そんなアテムを一瞥して、はつまらなそうに口を尖らせた。

「これでも一応、一人前の使用人になるのが夢なんですよ?」
「悪い、じゃあ俺の夢も教えてやるぜ」
「王の夢ですか?」
「ああ。俺の夢はやみんなが幸せに暮らせる国を作ることなんだ」

 おお、とは感心したように声を漏らす。それから少しだけ頬を赤らめて「王って気障なところもあるんですね」と恥ずかしそうに言った。
 アテムはその発言に、訳が分からないといった様子で眉を顰める。私のことちゃんと幸せにしてくださいね、とからかわれてそういう意味じゃないと慌てて声を荒げた。

 それからどのくらいの時間をかけて語り合ったかは分からない。
 忘れかけていたマハードとの約束を思い出し、そろそろを仕事に戻らせねばと思い立つ。もう十分に休憩をとったためかもその提案を素直に受け入れてくれた。

「……あの、またお話ししに来ていいですか? まだまだ話したいこと、たくさんあるんです」
「それは楽しみだ、だけど今度はちゃんと仕事が終わってから来いよ?」

 意地悪そうに忠告してやれば、は無邪気に頷き仕事に戻っていった。
 彼女が過剰に疎まれるのも、それをさして気にしないのも彼女のマイペースさが引き起こしたことなのだろう。しかしアテムには不思議とそれが不快ではなかった。
 遠ざかって小さくなっていく背中を見送りながら、次に彼女と言葉を交わせる日が来るのを待ちわびていた。

 アテムの視界からいなくなるまでの間に、は廊下に置かれていた水の入った壺をひっくり返し、花瓶を割っていた。彼女が一人前の使用人になる日は遠い未来のように思われた。

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