「ねえお姉さん、こっちこっち」

 お姉さんという呼びかけに、は自分が呼び止められているのだと気づくことができずにいた。いつまでも足を止めない相手に焦れたのか、小さく柔らかそうな手がの服の裾を掴む。
 引っ張られるような感覚に、思わず後ろを振り返った。そこにいたのは秋を連想させるような、朱を纏った少女だった。にいっと無邪気に口を三日月に歪める少女がどこか不気味で、は一歩後ずさった。
 下げた右足はそこにあったはずのコンクリートに着くはずであった。しかし体重をのせればのせるほど、足はずぶずぶと穴に嵌まっていき、そのまま深く深く落ちていった。

「な、なんだってんだ! 私がなにしたって言うんだ!」

 着地点の見えない恐怖に立ち向かおうと金切り声をあげる。殺すならせめて優しく殺してほしいとさえ願ったものの、落下する速度だけがぐいぐい上がっていく。すでにビル五階分の高さくらいは落ちたような気がした。

 とうとう暗い地面の底が見え始める。それと同時に柔らかい糸のようなものが体全体に絡みつき、を宙に吊り下げる。突如視界が闇色に染まる。思わず身を捩ると四方からくすくすと笑いが漏れ、落とし穴の中は声が反響してぴりりと振動した。

「うふふ、美味しそうなお客様が引っかかったこと」

 ただ闇としてしか認識していなかったそれは、どこか妖艶な雰囲気を醸し出す少女の瞳であった。段々と暗闇に目が慣れていき、眼球がいつもの調子を取り戻していく。
 そこで分かったのは少女の背後には見たこともないような大きな蜘蛛がいて、自分に巻きついているのは蜘蛛の糸だということだ。自分の命を救ったこの糸がとても不愉快なものに感じては糸を解こうと必死にもがいた。しかし動けば動くほど糸は粘着性を増していき、終いには身動きが取れなくなってしまった。
 それでもなんとかしようと周囲を見渡せば、海色の瞳を持った可憐な少女と目が合う。彼女の足元には植物の茎根で囲われた小さな沼があり、そこからは鈍く光る二つの目がぎょろりとこちらを覗いていた。

「いいな、その子とってもおいしそう……カズーラ、食べたいな。アトラちゃん、それカズーラにちょうだい……?」
「あら駄目よ。これはわたくしの所に落ちてきた餌だもの」
「ちょおっと待った、それを引き入れたのは私だ! よって私に食べる権利がある!」
「アトラちゃんもトリオンもケチ……」

 秋を連想させる少女――トリオンの下では、じゃきんと大きなアリジゴクのような昆虫がその刃で威嚇を始める。自身をカズーラと称する少女も棘をもつ茎をしゅるしゅると伸ばして臨戦態勢を整えた。

「あなたたち、随分と野蛮じゃない。そうね、ここはお客様の意見も聞いてみましょう……ところでお客様のお名前は?」
「……。というか勝手に話を進めないで。私は誰の餌にもなるつもりないから」

 闇色の少女アトラは楽しそうに顔を歪めた。怒気を含んだの睥睨も彼女にしてみれば猫が毛を逆立てた程度にしか感じられないのだろう。
 未知の化け物を前に、自由を奪われたままの体が小刻みに震える。

「ダメ、大人しくカズーラに食べられるの……」

 凄まじい勢いで伸びてきた茎の棘がの頬を襲い、一滴の血がつうっと顎まで伝い落ちた。その際に蜘蛛の糸も数本切れてしまい、アトラの眉間に深い皺を作った。

「このままじゃ埒が明かねえ! ここは全員の意見を取り入れて狩りを仕切り直そう」
「あら、トリオンにはなにか良い案でも浮かんだのかしら?」

 ふふんと鼻を鳴らしたトリオンは得意げに人差し指を天に立てた。彼女の案はまずアトラがを解放し、に逃げるため十秒を与えた後で一番先に捕えたものが餌にできるという鬼ごっこ方式だ。ただし落とし穴の中には一ヵ所だけ地上へ抜ける出口が隠されており、それを見つければの勝ちである。

もこれならいいよな!」
「良くはないけど、ただ食べられるよりならマシかな。ありがとうトリオン」
「トリオンばっかりお礼を言われてずるいわ」
「トリオン勝手……でも、カズーラがを捕まえるから良い……」

 にんまりと目を細めたカズーラに、身の毛がよだつほどの恐怖を覚えた。
 アトラから解放されると同時には一目散に走りだす。また彼女らの笑い声が落とし穴の中で響き渡った。なんとか一泡吹かせてやる。その一心でと蟲惑魔たちの命がけの鬼ごっこが幕を開いた。

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