三年ぶりに出たアカデミアの外の世界は、とても広く感じた。
 在学中も童実野町には何度か出たことはあったが、それも今前にしている世界に比べれば小さなものだった。国境を越えた友達は確かにいた。しかし初めて直に触れる異文化に十代は多少なりとも興奮していたのだ。
 食べるものも、住むところも、広がる風景も、すれ違う人々も、アカデミアにいた頃とは何もかもが違う。それでもデュエルだけは同じだった。
 一通りデュエリストと思われる人たちにデュエルを挑んでは楽しんだ。デュエルをすれば人が人を呼び、全員と戦い終えた時やっと、日が沈みかかっていたことにも気づかぬくらい没頭していたことを知った。

 もちろん宿の予約なんてものは取っていなかった。
 大徳寺はファラオの腹から顔を出すと、「十代くんは相変わらず、無鉄砲だニャ」と半ば呆れながら笑った。そう茶化されたとしても、そもそも十代には最初から宿で寝泊まりするつもりなどさらさらなかった。南島のアカデミア本校とも劣らぬこの暖かい国で野宿しても凍死することはまずないと踏んだからだ。

 腹ごしらえを済ませてからただ闇雲に、煉瓦の敷き詰められた道を当てもなく歩いた。さらさらと水の流れる音がする。立ち止まってあたりを見回す。このへんは土手になっているようだった。
 少し下ると、川の手前はふかふかの草花で覆われていて、寝るにはちょうどいいクッションになった。背負われてきたファラオもようやく人心地着いたとでもいうように、ぐっと背伸びをしてから草を粗食しはじめる。猫は草を食べて自分の腸内を整えるらしい。のんきそうなその様子を見て、十代も体重のすべてを草の布団に預けた。

 自然と目に飛び込んでくる星空は十代の視界を覆い尽くした。呑み込まれてしまいそうな深い闇にどこか懐かしさを覚えながら、鉛のように重くなった瞼を閉ざす。満たされたのか、ファラオはのそのそと十代の腹の上にやってきてはそこで寝ついてしまった。腹の上に乗せるにはいささか重すぎたが、彼から伝ってくる温もりが心地よかったので、自由にさせることにした。
 唯一聞こえてきた水の流れの音も耳に届かなくなった頃、十代は完全に眠りについた。


 ぼわっと瞼の外側が明るくなったような気がした。
 ――なんだ、もう朝か? それにしては寝た気が全然しないな。
 まだ働かない頭を抱えながら上体を起こすと、腹部にのしかかっていた重みがなくなった。ファラオを乗せたまま眠っていたことを失念していたのだ。

「もし、旅のお方ですか。こんなところで寝ていらしたら風邪をひかれますよ」

 その声でようやく頭が冴えた。どうやら先刻感じた光は、自分にいらぬ気遣いをかけた女が手にしている提灯の明かりのようであった。
 女はああ言えど、十代には宿もそれにかけてやる金もなかった。その旨を伝えてから寝返りを打とうとすると、女は提灯を揺らしながら「家へおいでくださいな」と誘った。

「大丈夫だって、俺のことなら心配ないさ」
「遠慮なんてしなくても大丈夫です。私の家はもともと宿屋でしたので。ささ、こちらです」

 丁寧な物腰のわりには強情な女に、十代もついには根負けしてその誘いにのることにした。
 寝起きでだるかった体は夜風にさらされていつもの調子を取り戻していった。

 つれてこられた家は元宿屋ということだけあって広さは十分すぎるほどだった。しかし客もいない今、一人でこんなところに暮らすのは退屈で辟易するだろうと想像してげんなりした。
 女の名はというらしい。母親と二人で宿を切り盛りしていたが、その母親が死んでからは経営をやめ、近々引っ越しを考えていると紅茶を淹れながら言っていた。

 一人暮らしが寂しいとはいえ不用意に男を招き入れるのは不用心ではないか。どうやら彼女には見えていないらしいユベルも、この女はどうにもオツムが足りていないようだとせせら笑う。
 出された紅茶を口に含むとその熱さでぴりりと舌が痛んだ。
 が笑った。おかげで十代の目はすっかり覚めてしまったようだった。

「十代さんはどこから来て、なにをなさっていたんですか」
「うーん、そうだな……」

 再び睡魔が訪れるのを待つ間の暇つぶしには良いだろうと、古い記憶を引き出しながら口を開いた。
 三幻魔のこと、破滅の光のこと、異世界のこと、ダークネスのこと――学園生活で起きたことをすべてかいつまんで話した。
 どうやらはデュエルをあまり知らないようで、目を白黒させながら楽しそうに聞いていた。おかしそうにくすくす笑うので、「ほんとのことだぜ?」と十代は口を尖らせもした。
 なにも知らない彼女に知識を詰め込むのが楽しくなって、時間を忘れて深く話し込んだ。なにを話してもうんうんと相槌を打ちながら聞いてくれるとの会話は今までにないくらい弾んだ。興味で光を帯びるの目は眠る前に見た夜空の星に似ていた。だからこんなにも惹かれたのだろうか、と十代は口を閉ざさないままぼんやりと思った。

「私もあなたのように前に進んでみるべきなのかしら」

 問いというよりは、自分に向けて呟くような言葉だった。
 実のところ彼女は家を棄てるべきか、また宿屋を続けるべきかずっと思案に沈んでいたのだ。こういった悩みに対して十代はあれこれ助言する性格ではない。ただ「が後悔しなければいい」とだけ告げた。そして、にはそれだけで十分だった。


 もう夜も更けたので、ということでその夜の談話はお開きになった。
 十代に用意された部屋はいやに広い一人部屋で、大きな寝台に身を落とす。電気の消えた室内はなぜだか野外より暗い感じがした。あのときは星があったからだろうか。同時にの笑顔さえ脳裏に浮かんできたので、ぶんぶんと頭をふって面影を振りほどいた。
 ここは自分にとって過ごしやすい場所なのかもしれない、長くここにいると離れられなくなるかもしれない。そんな考えが過ぎる。時計の針が進む音がやけに耳についた。
 やはり夜が明けないうちにこの家を出た方がよさそうだと十代は勢いよく起き上がった。ファラオがぶみゃあ、と不細工に鳴いた。

 に気づかれないように十代はそっと部屋を抜け出した。玄関へ向かうには先程ふたりで談笑したリビングを通らなければならない。扉の隙間から光が漏れていたので、音をたてないために用心してゆっくりと窺いながら開けた。
 電気こそついているものの、はソファに深く座ったまま眠りに落ちていた。どうやらティーカップを片付けるとそのまま自室に戻る前に意識を手放したようだった。ソファの背もたれにかけられていたブランケットをとり、それでをくるんでやる。頭を撫でるようにの髪へ指を通すと、さらさらと手から零れ落ちていく。

「元気でな、。いつかまた会えるといいな」

 電気を落とすと、一定のリズムを刻む寝息だけが部屋の中に残った。ぱたん。扉の閉まる乾いた音。十代の気配が完全に消えた、影だけが佇む世界ではうっすらと目を開いた。

「不思議な人、……でも、また会えますように」


 冷めきった外気は十代の温いからだを厳しく攻撃した。
 学友たちにしたように、きちんとした別れもなしに旅立つとは、なんて臆病な軟弱者なのだ。そう言われた気さえしたが自分はどうも面と向かっての別れなど気恥ずかしくてできない性分になったらしい。嫌がるファラオを抱いて暖をとった。

 不意に背中から感じた揺らめく淡い光に、思わず振り向いた。
 暗闇にぼんやりと現れた優しい灯火は左右に大きく遊び踊り、僅かに輪郭を浮かび上がらせる。いや、たとえその明かりが照らさなくても誰の仕業かなどすぐに分かっただろう。
 背中を向けて歩き出しながら、十代は高く振り上げると、同じように左右に振ってみせた。が笑ったような気がした。
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