1

 もうすぐあの人のもとへゆけるのだと思えば、すこしだけ気分が晴れた。突き刺すような夜の冷えこみがいっそう孤独を増幅させていく。はやく、はやく。人思いにつれさってほしい。


 私とご主人様マスターとの出会いは運命的でも戯曲的でもない、ふつうのカードショップで平凡に起きた。
 食費も光熱費もウンと切り詰めて残った雀の涙ほどの給料を握り、彼はカードショップにやってきた。たった1パック。それだけでは当然デュエルができないとわかっていながら、彼はそれだけ買って店を後にした。

 当時はデュエルモンスターズが出回りはじめたばかりの頃で、パックに必ずレアが入っているとは限らなかった。なけなしの金で買ったといえどもそれが奇跡を引き起こすなんてことはなく、例に漏れずノーマルカードしか入っていなかった。
 私なんかが出ていってがっかりさせてしまうのではないか。申し訳ないな、開けてほしくないな、とさえ思った。ただでさえ私は効果もなにもない、攻撃力も弱っちいカードなのに。この薄暗い世界の外がとても恐ろしいものに感じて、私は膝をかかえて蹲った。

 ぺり、という音が聞こえてきて、ああとうとうこのときが来てしまったのだなと頭をもたげた。隙間からこぼれてくる光に思わず目を細める。きらきらと期待に満ちた瞳と目が合った。あ、太陽。私はこの日、はじめて太陽を見た。


 ご主人様はずっとひとりだった。幼い頃に両親を亡くしてから施設で育ってきた。おなじ境遇の子どもたちのなかでさえご主人様はひとりだった。施設のなかにはすでにカーストができあがっており、ご主人様はいつもいじめられていたようだった。

 そんな生活から脱したくて、中学を卒業すると同時に就職して施設を出た。その頃だった、デュエルモンスターズが流行りはじめたのは。おなじ年頃の子たちがお小遣いでカードを買い、街中でたのしそうにデュエルをしているのをご主人様は羨ましそうに見ていた。暮らしていくのでやっとな給料しかもらえていないのに、それでも生活を切り詰めてお金をためてくれたおかげで私はご主人様と出会うことができた。

「ただいま」
「おかえりなさい、マスター」

 こじんまりとしたボロアパートに帰ってくるご主人様に返事をする。といっても私はいつも鞄のなかに入れられているのでいっしょに帰宅していることになる。出迎えているわけではないのだ。そして、この声が届いているわけでもない。これは私の自己満足だった。

 ご主人様がはじめてカードを買ってから何年も経った。デッキが組めるほどカードも揃ったし、強いカードだって十分手に入れた。これでもう彼もいっぱしの決闘者となったのだ。本来ならば私のように弱いカードなんてすぐに段ボールの底に眠るはめになっていただろう。でも、ご主人様は私をデッキに入れてくれた。私なんか抜いて、サポートカードを入れればもっとデッキが回りやすくなるのに。はじめて手に入れたカードだから、なんてもう気にしなくていいのに。
 ご主人様が会社の同僚と一戦を交えたときに、その人は笑った。

「お前、なんでそんな弱いカード使ってんの?」

 私は恥ずかしくなった。顔が熱くて仕方なくなって、何度も手の甲を押しつけた。私のせいでご主人様が侮られているのだ。自分を悪く言われたことより、そのことのほうがよっぽど私を苦しめた。ご主人様も笑った。

「これは俺のラッキーカードだから」

 その言葉を聞いて、どうせ彼らには見えないし聞こえないのだからとわんわん泣いた。ごめんなさい。こんなに使えないくせに思い出で縛ってデッキに居座ってごめんなさい。なにより、ほんとうは嬉しくてたまらないと思ってしまってごめんなさい。
 私以上に恵まれた「私」なんているのだろうか。ご主人様、私ははじめて私を手にとってくれたのがあなたでよかった。

「好きです。マスター、好きなんです」

 ぐすぐすと鼻水をすすりながら決して届かない想いを伝えた。ご主人様が困ったように笑った気がした。



2

 最近、ご主人様の様子がおかしい。
 仕事から帰ったらご飯も食べずぱたりと布団に倒れこむ。朝は目覚まし時計が鳴ってもなかなか起き上がることができなくなっていた。あきらかにやつれてきたし、目のしたの隈も濃くなっていた。
 さすがのご主人様も自分で体調が悪いことに気づいたのか、体温計を取りだしてチェックしていた。結果は三十七度三分。風邪かな、と小さく呟きながらスーツを着込んで部屋をでた。風邪なら休むべきなのに。ほんとうにただの風邪でおわるだろうか。ご主人様は働きすぎな気がしていた。なんだかとても嫌な予感がしたけれど、私にはどうすることもできなかった。


 その晩、ご主人様の熱は上がった。息もつらそうで、しずかな室内にぜぇぜぇと荒い呼吸の音がする。汗にびっしょりとぬれたシャツを着替えて、すこしでも栄養のあるものをとって、あたたかくして寝ないといけないのに。もうご主人様には起き上がる気力もないようだった。
 こんなとき私がなにかしてあげられたらいいのに。体をタオルで拭いてあげて、あたたかいお粥をつくって、食べさせてあげられたなら。私が、人間だったら。なにもできない自分を心底恨んだ。

 ご主人様はデッキを手にとり、ぼんやりとそれを眺めていた。熱にうかされて潤んだ目ではよく見えていないようだった。一枚一枚たいせつに目を通して、最後に私のカードを見た。慈しむように指がすべり、なぞっていく。その弱々しい動作にいよいよ危機を感じた。ご主人様は、もう。

「……、」
「! はい、マスター! はここにいますよ! いつでもマスターのお傍にいますよ!」

 身を乗りだして床に伏せったご主人様の顔を覗きこむ。視線が合うことはない。ご主人様はかすれた声を振り絞った。必死に聞きとろうと口元に耳を近づける。

、お前は……」

 なに、なんて言ったの。声は空気となって解けた。しずかにご主人様のまぶたがとじていく。
 聞こえない、聞こえません。ご主人様の声が聞こえません。私の声が届かないばかりか、ご主人様の声まで聞こえなくなってしまった。その夜はつらそうな寝息をたてるご主人様の寝顔をただ見つめて過ごした。その顔はなんだか笑っているようだった。


 いつもとおなじ朝を迎えた。カーテンから差しこむ光は眩しくて、ご主人様はいつも居心地が悪そうに寝返りを打っていた。ジリリリ。目覚まし時計が騒音をたてる。ご主人様はまだ寝ている。

「マスター、朝ですよ。会社に遅刻してしまいますよ」

 どれだけその背中をゆすっても、ご主人様はぴくりともしない。そりゃそうだ。私の手がご主人様に触れられるわけがないのだから。
 鳴りやまない目覚まし時計に苛立ったのか、隣人がドンと壁を殴ってきた。ごめんなさい。私じゃとめられないんです。ご主人様、ほら起きましょうよ。結局その日は、十分経って目覚まし時計が自動でとまるのを待った。

 ご主人様が起きることはなかった。


 数日して、アパートの扉が開かれた。だれも訪れることのなかった室内に、はじめて客がきた。ああ、あんまり荒らさないでほしいなぁ。無断欠勤がつづいたご主人様を心配して、会社の人がきてくれたのだ。大家さんに鍵を開けてもらったらしい。
 布団で眠るご主人様を見るなり、うぇ、と彼は顔を歪めた。

「こういう場合ってどうすんのかなぁ……会社に連絡? いや、まず警察か……めんどくせぇ」

 彼はぶつぶつ言いながらケータイをいじり、外にでていった。どうやらご主人様が死んだことをだれかに連絡してくれるらしい。これでようやくご主人様はひとりではなくなった。

 私だってそこまで馬鹿じゃない。ご主人様が死んだことはわかっているし、現実から目をそらすことだってしなかった。ご主人様は、死んだのだ。

 出会ったころより、ご主人様はずいぶんと年をとっていた。少年だったあどけなさもなくなり、目じりの皺もふえていた。でも彼の時はもう動きだすことはない。時間が進まない私と、はじめて共通点ができた気がした。
 なぜ人間はこうもあっさり死んでしまうのだろう。ご主人様はもうこの世界にいないのに、なぜ私はまだここにいるのだろう。できれば彼が死ぬときに私もいっしょに死んでしまいたかった。ずっと彼とおなじものを見ていたかった。人間とおなじ時間を歩みたかった。

 ご主人様は天涯孤独だ。そして親しい友人も恋人もいなかった。だから葬式をあげることもなく、ひっそりと地方公共団体が葬ってくれるらしい。ご主人様の部屋をばたばたと行き交う人たちがそうこぼしていた。

「ごみは全部まとめておけよ」

 私はいろいろなものといっしょに袋に詰めこまれた。深い闇に放り込まれるような感覚だった。すこし怖かったけどこれでよかったのかもしれない。こうして消えることができれば、ご主人様とおなじところにいけるかも。彼との最後の思い出を手繰りよせる。笑った顔。かすれた声。
 そういえば、彼は最後になにを伝えたかったのだろう。長い長い夜が訪れた。



3

 ごみ捨て場にぽつんと取り残された。燃えるごみの日は月曜日と木曜日だ。金曜に片づけられてからこの日がくるまでずいぶんと長く感じられた。
 本来なら業者が他のごみといっしょに運んでくれるはずだったのに、大きなごみとかを持っていっただけで私が入れられたくらいのちんけなゴミ袋は大家さんが捨ててくれることになった。ずさんな仕事だ。他の仲間たちは他のごみとまとめられ、箱に詰められていたのはそのまま処分された。大家さんも大家さんで普段は夜にごみをだすご主人様に文句をつけにきていたくせに、故人のごみを手元に置いておきたくないという理由で私は夜に放りだされた。

 私の心を占めたのは、はやくご主人様のもとへいきたいという願いだけだった。ここは、暗くて寒い。ごみ袋のなかでぽろぽろと泣いたら、あの日に見たご主人様の困ったような笑顔がまぶたの裏にうかんだ。

「この辺なんだよな、泣き声が聞こえるの」

 こんな時間に人の声がするなんてめずらしい。この辺は人どおりも少なく、ちかくに夜まで開いている店もないので普段はとても静かなのだ。独り言のような青年のテノールが響く。酔っ払いだろうか。その足音はだんだんと近くなってきて、そしてぴたりととまった。ガサガサと耳をつんざくような激しい音がする。思わず耳をふさいだ。
 それがやんだころにはあたりはやけに明るくなっていて、その光源をさぐるように顔を上げた。

「みーっけ」

 あ、太陽。いまは夜のはずなのに、私の前にはたしかにご主人様と出会ったときのような太陽が昇っていたのだ。
 青年は私を取りだした。ご主人様のときとは違い、ばっちりと目が合った。まるで私が見えているかのようだ。

「ひでぇことするもんだな。カードを捨てるなんて。大丈夫だったか?」
「……私が見えるの?」
「あたりまえだろ」

 あたりまえなわけがない。ご主人様には私のことが見えていなかったのだから。見えていたらどんなによかっただろうか。見えていたら、なにか変わっただろうか。よみがえるしあわせな日々にまたウッと嗚咽をもらすと、青年はあやすように私の背中をたたいた。

「怖かったのか? なあ、泣くなって」

 その声色は焦っているようで、なんだかおかしかった。

「助けてくれてありがとう。でも、私このままでいいの」
「このままって……捨てられてもいいのかよ。そんなこと、死ぬのといっしょだぞ」
「いいの。……私のマスター、死んだの。ひとりで。だから私も死んで、またおなじ世界にいくの」

 私はカードの精霊でご主人様は人間だ。私が死んだところで彼とおなじ場所へ帰れるかなんてわかりっこなかったが、今はすこしの望みにさえすがりたかった。

 死んでもいい。なんて言った私を最初は信じられないという風に見ていた青年は、ほどなくして目をつり上げた。ちょっと怒っているようだった。がしりと両腕をつかまれる。だれかに触れられるなんてこと自体はじめてで、あるかもわからない心臓が飛びだしそうだった。彼の真剣なまなざしが怖かった。

「俺は遊城十代。お前を見つけてほしいってやつから頼まれてここにきたんだ。お前は死にたいかもしれないけど、お前の持ち主はお前が死ぬことを望むようなやつだったのかよ」

 見つけてほしいやつって、頼まれたって、だれに?
 ごくりと唾を嚥下する。まさか、信じられないけど。それでも私のことを知っている人なんて、ましてや気にかけくれる人なんて私にはひとりしかいない。ああ、その人はもしかして――

、お前は次の持ち主のとこでしあわせになっていいんだ」

 あのとき伝えられなかった言葉を、彼を通して伝えにきてくれたのでしょうか。
 十代くんの腕に、そっと手を重ねる。指先がふるえているのはバレてしまっているだろう。まだ怖いのだ。ほんとうにそれがご主人様の真意なのか。次の道をひらくことが裏切りになってしまわないか。怖くて怖くてたまらないのだ。それでもこの青年が適当なことを言っているとはとても思えなくて、信じたくなる自分がいる。

「いいのかな、私、マスター以外の人のとこに行ってもいいのかなぁ……!?」
「お前の持ち主はそんなに器のせまいやつだったのかよ」
「すっごくやさしかったに決まってるでしょぉお……!」

 弱っちい私なんかをいつまでもデッキに入れてくれて、どうにか私を使えないかって検討してくれて。嗚咽まじりに、ちょっと怒りながら叫ぶ。十代くんは困ったようにはいはいと笑いながら、文脈もめちゃくちゃになった私の言葉を聞いてくれた。そんな顔がどこかご主人様に似ていて、また涙で顔をぐちゃぐちゃにしてしまった。きたねぇ、なんて失礼なことを言いながら十代くんは袖で涙を拭ってくれた。

「もう死ぬなんて言うなよ。俺だってがどんなに弱くても捨てたりなんかしないから」

 あったかい。陽だまりのなかにいるようだった。
 そう言うからにはちゃんと使いなさいよ。笑うと、それは難しいなとはぐらかされた。それでいい。私はもうご主人様に十分すぎるほど必要とされたから。

 約束、果たしたぜ。そう宙に向かって握りこぶしをかかげる十代くんにはなにが見えているのだろう。もし、そこにご主人様がいて、今度は私があなたを見えない番だったりしたら、それはちょっと面白いですね。ありがとう。そう呟いたら、流れ星がひとつ夜空を駆け抜けていった。

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