それは遠い昔、自分の中の一番古い記憶だった。
 十数年経った今でもなお鮮明に浮かび上がるあの日々は、これから先も決して色褪せることはないのだろう。振り返ってみると、あの時間を過ごすには当時の彼女には幼すぎたのだ。しかし今の彼女が体験できるものなのかと問えば、は首を縦に振ることもできないのだった。


 が小学校に入学したばかりの頃の話である。真新しいランドセルを背負い、ようやく慣れてきた通学路を一人で辿っていたある日のことだった。高層ビルとまではいかない高い建物が並ぶ通りの奥、少し入り組んだ細い路地へと偶然視線をやったのが始まりだった。

 建物と建物に挟まれ、太陽の光が届かない薄暗いそこに、一人の男が突っ立っていた。その男は辺りの暗さに負けないくらいくすんだ顔色をしていて、今にも消えてしまいそうだった。男は何をするでもなくただそこでぼんやりと佇んでいるだけであった。憂いを帯びたその顔はまるでテレビから切り取ってきたような端正なものだったと記憶している。
 見るからに悲しそうであろうと、辛そうであろうと、結局は赤の他人の出来事なのだ。多くの人間は明らかに沈んだ様子の男の前を、まるで視界に入っていないかのように通りすぎていった。
 は物珍しげにその男を一しきり観察すると、そそくさと帰路についた。

 それから次の日も、そのまた次の日も、男は相変わらず浮かばれない雰囲気で同じ場所にいた。ゆっくりと流れていく雲を映す男の瞳は鈍く、自分と同じ景色が見えているのだろうかとは首を傾げた。そしてその日、とうとう好奇心に負けたは男に近づく。知らぬ人に声をかけられてもついていくなとは教わったが、知らぬ人に声をかけるなとは教わらなかった。

「お兄ちゃん、どうして毎日ここにいるの? なにか嫌なことでもあった?」

 思いがけず降りかかった幼い声に、男は怪訝に視線を彷徨わせた。近くで見上げるとすらりと伸びた男の背はには電信柱のように高く感じられた。ようやくこちらに気づいた男は、その大きな体を屈め膝をついての目線に合わせる。ここ数日、傍から見た彼はただの不審者であったが、どうやら子どもを気遣う優しさは持ち合わせているらしい。

「君はどこからきたんだ? 子どもがこんな所を一人でうろついていたら親が心配するぞ」
「うーん……でもお兄ちゃんがいつも悲しそうだったから、も心配だったの」

 不意を突かれたような、きょとんと丸まった瞳に自分が閉じ込められていた。この人はこんな表情もできるんだと素直に感心したのも束の間で、それはすぐに伏せられてしまう。

「俺はこんな子どもにまで心配されるほど酷い顔をしてたんだな」

 自嘲まじりのその言葉はあまりに小さく、の耳には届かなかったのかもしれない。ただ俯いたまま上げられることのないその頭をはぎこちない手つきで撫でてやった。
 その日を境に、待ち合わせをしたわけでもないのに二人は毎日同じ時間帯にそこで落ちあうようになった。


 他のクラスメイトが始まったばかりの学校生活を楽しんでいる中、は一人はやく学校が終わるのを望んでいた。学校で友人と遊ぶことよりも、いつもの場所であの男――丸藤亮と話す方が楽しみだったのだ。
 しかし「亮お兄ちゃん」の話は友人にも、家族にさえ語ったことはなかった。幼いながらに、誰かに話してしまえばこの関係は崩れ去るのだろうと察知していたのかもしれない。
 出会った当初は、何も語ろうとしなかった亮にが一方的に話をしたり質問をしたりするだけであった。小学生の話など聞いてもつまらないだろうが、一度とて嫌な顔をされた日はなかった。それがいつの日にか、亮は学生時代を語り出し、最近抱えている悩みをも打ち明けるようになっていた。社会のことなどまるで分からぬは、大人の愚痴をひたすら聞いてやることしかできなかった。

「俺がこんなことを話せるのはだけだな」

 それでも当時心の支えがなかった亮には十分だったようだ。いつもは引き締められている彼の表情筋が緩み、とても優しい顔になる瞬間がはたまらなく好きだった。そうして感謝の意を示されると、胸がむず痒くなるような嬉しさを覚えた。

 と亮が会話を交わす時間は、そう長くはなかった。小学一年生が日が暮れるまで家に帰ってこないとなると、下手をすれば大事にされるかもしれないからだ。そういう時、自分が子どもであることがとても煩わしく感じたのだった。亮と一緒にいる間、何度時間が止まればいいと願ったかは分からない。
 自分に優しくしてくれる父親とは違った男性に、恋と呼ぶには早すぎる感情がの中に芽生えていた。それが本当の恋愛感情ではないと、当時の自身もなんとなく気づいていたのだ。
 否、告白してしまったあの時に、気づかされたと言っても過言ではないかもしれない。

「ねえ、亮お兄ちゃんのお嫁さんになりたい」

 その時の亮の顔をは今でも忘れることができない。
 家族の誰かが見ていた恋愛ドラマで、失恋した役者が浮かべるよりずっと酷く苦しげなものだった。目の前のその人は泣いてなどいないのに、なぜ泣いているように見えるのだろう。なにか流れを変えるような冗談でも言いたかったが、口は縫い付けられたように動かなかった。

「……そうだな。俺も、とだったら結婚したい」

 とても辛そうに、無理やり絞り出したような低い声でそう告げられた。
 ――ああ、この人はわたしに恋をしているんだ。
 根拠などどこにもないのに、その推測はほぼ確信を帯びたものだった。彼を悩ませていたものは年齢差、つまりその人にあったことを本人は後になって知ることになる。

「もしが大人になって、それでもまだ俺を好きでいてくれたら……その時は結婚してくれるか?」

 自分のものと似て非なる重い愛情をぶつけられ、は初めて亮に恐怖した。戦慄く唇で「うん」と形作るのが精一杯であった。きつく抱きすくめられた肩がみしりと軋んで、折れてしまうのではないだろうかと思うほどだった。ランドセルに下げられた防犯ブザーがかたかたと揺れた。


 それから亮はぱたりと姿を消した。彼がいなくなってから数週間後、偶然かけたチャンネルでヘルカイザー亮と呼ばれた決闘者を見つけた。もちろんあの「亮お兄ちゃん」と同一人物ではあるが、その変貌ぶりには目を疑った。
 しかしそれよりも彼の身に何かあったわけではないと知った安堵の方が大きかった。

 あの時味わった恐怖のせいか否か、大人に成長したは今でも色恋沙汰を億劫に感じていた。興味がないわけではないが、自分から積極的に関わるのは憚られた。毎日思い出すわけではないけれど、ふとした時に蘇るあの記憶はの中で大切な思い出だった。
 けれど、もしもあの時の約束を覚えている彼と再会したら。彼とだったら恋をするのも悪くない、今の自分であったら彼を受け入れられるのではないか。そう考える自分がいるのに気づき、思い出に逃げようとする自身をは厳しく叱責した。
 それでもたまに、彼にまた会えそうな気がして、無性にあの場所に帰りたくなることがあるのだった。

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