――あなたの上司、人間界に行くんですってね。
同僚の何気ないその一言に、は目の前が真っ暗になった。近頃、バリアン界は不穏な空気のせいで皆が緊張していた。良からぬ者達が他の世界を脅かそうとしているとの情報が駆け巡っているのだ。それは平和に暮らしたいと願うバリアンを、無闇に危険に晒すということ。現在が所属しているバリアンズ・ガーディアンも手を拱いているわけにはいかなかった。
しかし、だからといって。おずおずと目線を向けた先では、自分の上司がデッキを組み直しながら意気軒昂としていた。今にもはちきれてしまいそうな不満が、空気の抜けた風船のように萎んでいく。力の入っていない、情けない声だけが喉から出ていった。
「先輩、考え直してくださいよ……人間界に行くなんて」
そう嘆きながら、は項垂れた。ここでいう先輩とはこの仕事を始めてからずっと世話になってきた上司を指す。真面目でありながらとっつきやすく、いつも助けられてばかりいた。はそんな彼を一番に尊敬しており、かつ密かに恋心を抱いてすらいる。意中の人を引き止めようとあれやこれやと説得を試みるが、当の本人はそれを笑って受け流した。
私を一人にしないでください、先輩。とうとう堪えきれなくなり、半べそをかきながら上司に縋り寄った。彼はきょとんと目を見張り、そして幼子をあやすようにの背をさすりながら、声を上げて笑うのだった。
「なに言ってるんだ、君も私と一緒に行くんだよ」
「……はい?」
いや、あんたがなに言ってんだ。呆気にとられているを尻目に、君も早く準備しろよとまた一笑。さも当然とばかりに言っているがそんなことは初耳である。終いには立ち往生し始めたの肩にずっしりと圧がかけられる。
「私は真月零、君はとして人間界に行くんだ。着いてきてくれるな?」
そんな風に仰られたら断れないじゃないですか。目と鼻の先にある端正な顔から逃げるように目を伏せる。熱がこもる頬を手で覆い隠した。
バリアンの世界しか知らないに、人間界はとりわけ彩り豊かに見えた。ハートランドシティではたくさんの人間、そしてお掃除ロボットたちが活動している。初めて見る物、者に興奮を露にした。
人間ってなぜこんな体をしているんだろう。くるくると回ると、目的のために必要だというピンクのスカートがふわりと広がった。花のようで可愛らしい。
そして何より――上司、真月零の姿だ。道ですれ違うどの男たちよりもずっとずっと魅力的だとは信じて疑わなかった。
「先輩かっこよすぎですー! もうなんでそんなにイケメンなんですかぁ!」
「も可愛いさ。でもあまり騒ぐと目立つから落ち着け」
びしっと軽く小突かれた頭を幸せそうにおさえる。
先輩が、先輩が可愛いって言ってくれた……!
世辞であることは明白であったが、それでもは喜びに胸を躍らせた。その時、ハートランド学園の制服を着た男女がたちの横を通り過ぎていった。<彼らは手を重ね、恥じらいながらも会話に花を咲かせて歩いていた。もしかしたらいつか自分と先輩もあんな風に。そこまで妄想してから、はまた一人ではしゃいだ。
人間に夢中なを暫く不審そうに観察していた真月は、なにか閃いたように手を叩いた。そしてそのままの手を絡め取る。突然の状況を飲み込めず、手と真月とを交互に見遣った。
「よかれと思って手を握っちゃったんですが、ちゃん大丈夫ですか?」
悪戯をしてやったと言わんばかりの表情に、は目をくらます。
敬語にちゃん付けなんて可愛すぎて反則です。足が縺れてよろけると、真月はしっかりとその体を支えた。前言撤回、やっぱり先輩はかっこいいです。