1
と明里は旧知の間柄である。二人の家は隣どうしで、両親とも彼女らが生まれる前からの仲だった。そのためか赤子の頃からずっといっしょに育ってきたも同然だった。
物心がつく頃にはすでに親友の関係が出来上がっていた。長い時間のなかで人並みに喧嘩もしてきたが、それでも絆にひびが入ったことはなかった。そうして、この関係はこれからも当然のように続いていくのだろう。幼い思考でぼんやりとそんなことを考えていた。
けれど決してそんなことはありえない。永遠につづく関係なんてありはしないのだと、気づいたのはが中学生になってからだ。
いままで無邪気に遊んでいた周囲のみんながいっせいに色気づきはじめていった。学校では色恋沙汰のはなしが各所で飛び交った。
昨日の体育であの男子が格好よかった。最近気になる先輩がいる。クラスのなかであの子の胸がいちばん大きい。
はそれらの話題にまったくの無頓着であった。和を乱さぬよう、にこにこと話を聞いていたが、自分から口をひらくことはなかった。男子との交流があるからといってそれが好きという感情に発展するかは別の話だった。
中学生活の三年間で、と明里がおなじクラスになることはなかった。目のとどかない場所に彼女がいることにひどく恐怖を覚えた。クラスの女子のように恋愛にうつつを抜かす明里を見たくなかったのだ。自分ひとりが世界からとり残されるような、いやな感じだった。
しかしそれは杞憂に終わることとなった。空手をならいはじめた明里にとって、いまは恋愛どころではなかったからだ。
よかった。明里だけは、私をひとりにしない。二人ですごす時間はこれまでよりもいっそうかけがえのないものに感じられた。
親友がいない教室で鬱屈とした日常を過ごしていたある日、ひとつの事件が起きた。事件というにはいささか度が過ぎるかもしれない。けれどにとっては確かに事件なのであった。
――ずっと前からさんのことが好きだったんだ。俺とつきあってください。
はたいそう困惑した。まさか自分がそういう対象として見られているとは思いもしていなかったからだ。告白されてこみあげてきたのは、少しばかりの嫌悪感だった。
「……ごめん。好きとか付き合うとか、よく分からないから」
「さんともっといっしょにいたいんだよ、楽しく話したり、遊んだりしたいんだ」
名前も知らなかった彼はしつこく食い下がってきた。その彼のことばを必死で噛み砕こうとした。好きだから付き合う。付き合うのはいっしょにいたいから。いっしょにいたいから付き合う? そんなのおかしいじゃないか、付き合わなくたっていっしょにいることはできる。現に明里とは付き合っていないが、いつもいっしょだ。
じゃあ私は明里と付き合いたいのか? わからない、けれど明里が男の人と仲良くなる想像をしたら胸が苦しくなった。
女が男を好きになることと、女が女を好きになること。その違いがにはまだ理解できずにいた。
その日は明里といっしょに下校した。たまたま道場が休みで、今日の稽古はなくなったのだと明里はすこし残念そうに言った。
遠くでおおきな夕日が真っ赤にそまっていた。ゆらゆらとうごめくそれを見ていると、雲のうえを歩いている感じがした。
「ねえ、なんかあった?」
夕陽を取り込んだように紅いポニーテールがさらりと揺れた。
いままで彼女が自分の隣にいることになんの疑問も抱いていなかった。いずれは二人とも、特別な相手を見つけて徐々に距離がひらいていくのだろうか。明里の隣に知らない男の人がいるのは想像できた。さっきと同じように胸が苦しくなる。でも、自分の隣に明里以外のだれかがいるのは想像さえできなかった。ずっと、ずっと彼女といれたらそれが一番だ。
「べつに……ただ、明里とはずっと友達でいたいなって思ってた」
紫水晶のような瞳が驚きの色を映した。そしてゆるゆると目尻がゆるんでいき、彼女が笑みを浮かべたのがわかった。
「ってさ、たまにすごく恥ずかしいこと言うよね」
「恥ずかしいって、そんなこと言われたらもっと恥ずかしくなるんだけど!」
「でも私、あんたのそういうとこ好きだよ」
「……あ、明里もじゅうぶん恥ずかしいこと言ってるじゃん」
あーあ、のが移っちゃった。と明里は声を上げて笑っていた。
じわじわと、こぼした紅茶がテーブルクロスを侵食していくような心地だった。あたたかい。けれどだめなのだ。よごれてしまったものは使い物にならない。排除されてしまう。
「私も明里が好きだよ」
そのことばは口から出てこなかった。好きという感情にはいくつかの種類がある。それが自分と明里のものとで異なってしまった。そう感じたらこの思いを伝えることは無理のように思えた。
愛だの恋だのをしらないにも、わかることがひとつだけあった。きっとこの「好き」は彼女に拒絶されてしまう。だれにも悟られてはいけない、隠していかなければいけないものなのだ。これが一時の気の迷いであればどんなによかっただろうか。いまとなっては想像もつかない。
2
黒いスカートがひらりと風に遊ぶ。と明里は高校に入っても同じ制服に身をつつんでいた。恐れていた春はすぐそこにまで近づいていた。
週に一度は自宅の隣にある九十九家に遊びに行っていただったが、最近はあまり気乗りしなくなっていた。もちろん明里が嫌いになったわけでも、九十九家が嫌いになったわけでもない。むしろこの家はどこか懐かしいかおりがして好きだった。遊馬くんとも自分を「姉ちゃん」と呼んでくれるまでには親しくなれた。
問題は、この家の外部にある。
「ただいまー!」
「おじゃましまーす」
明里は玄関に小洒落たおおきな靴があるのを確認すると、ぱたぱたと駆けだした。脱ぎ散らかされた彼女の靴をそろえて、も居間へ移動する。一馬さんの優しそうなおかえりという挨拶が聞こえてきた。
「やっぱりまた来てたのね! チャーリー、お父さんに迷惑かけてないでしょうね!?」
踏み出そうとした右足の動きが止まる。鞄をもつ手に無意識に力がはいった。大嫌いな、大嫌いな名前が聞こえてきて、しばらくそこに突っ立っていた。
「あら、ちゃんどうしたの? 中にはいっていいのよ」
未来さんに肩を抱かれて誘導される。白魚のような手がを檻の中にとじこめた。
まって、まだ心の準備ができていないの、あいつの顔を見ながら笑える準備が。
「おお、いらっしゃいちゃん」
「久しぶりだねちゃん、今日も一段と可愛いねぇ」
「こんにちは一馬さん……チャーリーさんも」
この男に会うと、の腹のなかでどす黒いなにかが渦巻くのだ。チャーリー・マッコイはがこの世界でもっとも憎むところの人間だった。彼はしあわせだった時間をのうのうと壊していったからだ。
一番近くで、一番よく見てきたからわかる。明里はとてもきれいになった。もともと整った顔立ちをしていたが、瞳はきらきらと光を帯び、頬は桜色に紅潮している。彼女は恋をしているのだ。悔しいことに、恋をしている明里はこれまで以上に魅力的な少女になった。秘めていた想いが心臓の内側で爆発しそうになる。私のほうがずっと何年も好きだったのに、どうしてよりによってあいつなんかを。
「なあちゃん俺と今度どこか遊びに行こうぜ」
「を口説いてんじゃないわよッ」
「痛ってぇ!」
こんな軟派でふざけた男なんかより、私のほうがずっとましじゃない。そんなことを思っても、の目に映る明里はどこから見てもしあわせそうであった。
もし男に生まれていたら明里はふりむいてくれた? いいえ、そんなことは、きっと。
世界が色をなくしていく。たまたま絡み合った視線にからだを縫いつけられる。あの男の、あの目が、大嫌いなのだ。こちらの心をすべて見透かしたように笑う、ゆるやかに垂れたあの目が。
九十九家がこんなに窮屈な場所に感じられたのははじめてだった。それもそのはず、この空間ではだけが異端なのだ。一般的に家庭のなかは異性愛者の人間がいるものだ。男女がたがいを愛し合い、そうして家族という小社会をつくりあげるのだから当たり前のことである。
だがは違った。男よりも明里が好きだった。
かといって明里以外の女に興味があるかと言われれば、興味はないのだろう。出会いが少ないだけかもしれない。きっかけがないだけかもしれない。それでも彼女に抱いた思いはたしかに恋情であった。
いつから、だれが、異性と愛し合うことを普通と決めたのか。どうして同性と愛し合うことが罪になったり、異端の目で見られたりするのか。
だれにも打ち明けられない悩みにの精神はすこしずつ朽ちていった。
「そろそろおいとましますね」
なごやかな談笑がぴたりとやんだ。一馬がちらりと時計に目をやった。時刻はすでに七時を回っていた。
「ああ、じゃあ俺もそろそろ」
「チャーリー、ちゃんを送っていけ」
「送るって言ったってすぐ隣じゃない」
「その短い距離でだってなんかあったらどうするんだよ。じゃあな」
さあ、行こうか。そう微笑みながら腰に手をまわされる。不愉快そうに歪めた顔を伏せて、は一馬たちに別れの挨拶を手早くすませた。うしろから明里の怒号が飛んでくる。チャーリーはそれから逃がれるようにを抱き寄せながら走った。
3
玄関の扉を開け放つと湿気をふくんだ重い空気が流れこんできた。じっとりと絡みつくような熱が汗をさそう。
とんとん、と控えめに腰に回された手をつついてやると、それはすぐに離れていった。やはりこれは明里の気を引くためのものだったのだろうか。呆れと諦めが半分ずつ、ため息となってのなかから出ていく。
「なあ、なにか俺に言いたいことがあるんじゃないか?」
「え……?」
突然の問いかけに、伏せていた顔を思わず上げた。またあの目だ。射抜き殺そうとするかのように鋭い目がこちらをとらえる。チャーリーのなにを考えているか分からない、底が知れないところも嫌いだった。未知のものに恐怖しているのと同様の感覚である。
「いつも俺のこと睨んでるじゃないか。話を聞いてあげることくらいはできるよ」
ばれていたのか。いや、ばれていないとは思っていなかった。さすがにの態度はあからさますぎたのだろう、気づいていないのは明里くらいなものだ。
「いいんですか。私きっと、ひどいこと言ってしまいますよ」
「女の子の話を受け止めてやれないほどダサい男になった覚えはないさ」
「……私チャーリーさんが嫌い。そういうきざったらしいところも嫌い、嫌い」
「ああ……でも面と向かってそう言われると、傷つくな」
苦い顔をして笑うチャーリーに、もにこりと微笑んでやった。精いっぱい馬鹿にするように、たまった呪詛を吐きだすように笑った。結果、その痛々しい努力さえもが彼の同情を買うことになるとはつゆ知らず。
私は明里のことが好きなの。でも明里はあなたのことが好きなの。ずっといっしょにいた私より、ずっと好きでいつづけた私より、あなたのことが好きなの。きっとそれが当然なんだ。女の子が男の人を好きになるなんて、ごくあたりまえのことだ。
だけど私にはそのあたりまえのことができない。私は明里を愛してしまった。ずっとだれにも言えなかった。言ってしまえば私は明里のそばにはいられなくなってしまうだろうから。あなたが憎い。明里に愛されているあなたが。どうして私じゃなくて、あなたなの。
こんなふうにみにくい嫉妬をしている私だから愛してもらえないのかな。でも、とまらない。あなたを嫌いでいることも、明里を好きでいることも、やめられない。
ぽろぽろとこぼれ落ちた涙が地面に黒い染みをつくっていく。声もあげずに泣きじゃくるの小さな頭を、骨ばった手が撫でた。自分の体温にとけこんでくるあたたかさに首を振る。求めている手は、この手じゃない。この手は救いの手などではないのだから。
「俺は君の気持ちを否定なんてしない。君の想いは誇れるものであるべきだ」
真剣な眼差しだった。馬鹿にされ、気持ち悪がられ、拒絶されるだろうと身構えていたはびくりと震えた。泣きはらしたまぶたは熱をもっている。チャーリーはそっと涙の跡に指を這わせてきたが、そこにいつもの下心はなかった。
「だが、多くの場合、少数派(マイノリティ)は排除される。明里だって……」
「……わかってる」
言われなくてもずっと考えてきたことだった。しかし改めて人から指摘されると、よりつらくなった。つらくなるのは、もしかしたら明里なら、とありもしない希望にすがっていたからかもしれない。明里が悪いわけではない。自分と違うものを受け入れられないというのは珍しいことではないのだから。この想いを隠し通せることができたら、批難も拒絶もされないのだ。伝わらなくても、彼女のそばにいられれば十分じゃないか。
「ずいぶんと、くるしい恋をしたものだね」
明里に好かれているあなたには、そんなこと言われたくない。
口には出さなかったが、どうやら嫌味は届いたらしい。ぎゅっと眉根を寄せて、チャーリーはかわいた笑い声を上げた。
「安心しなよ。俺と明里は付き合ってなんていないから」
4
はじめて他人に胸の内を明かしてからいくつかの季節が過ぎた。と明里をとりまく環境、人は移っていった。もう九十九家にきても、息苦しさを感じることはほとんどなくなっていた。
職業柄、定期的な休みがとれない明里のために、は自分が休みの日には彼女のもとを訪れていた。明里の仕事が自宅でこなせるものなのが幸いであった。パソコンと向き合う彼女の話し相手になるだけ。実らない恋心を抱いているにとってはこの時間だけで十分至福をえられていた。
「ねえ。明里って、まだチャーリーさんのことが好きなの?」
「は、ああ? なんで私が。どこほっつき歩いてるのかわからないようなやつを!」
大げさにむせながら、明里は声を荒らげた。乱雑に置かれたコーヒーカップから中身が跳ね上がる。なんて分かりやすい。
「あんた、あの人以外に男の人を気にかけたことなんてないじゃない」
「そんなこと、ないわよ……でもね、あいつ、この前ここにきたのよ」
すぐに行っちゃったけどね。
そうつぶやいた明里の唇はさみしさの音をのせていた。そんな表情すらもうつくしいと思えるのは、惚れた弱みからくるものなのか。
一馬が行方不明になって以来、彼もこの町から姿を消していた。いまになって明里の前に現れたということは、すくなからず彼女のことを気にかけていたのだろう。明里の様子を見るに、まだ恋仲には発展していないらしい。チャーリーは妙なところで律儀な軟派男であった。
「それよりこそどうなのよ!」
「どうってなにが」
「いいかげんむくわれない恋なんてやめたほうが楽になるわよ」
途端、頭のなかが真っ白になった。ぴこぴこと電子的な音だけが耳に入ってきて、うまく物事を考えられない。
むくわれない恋? なんで明里がそのことを知っているの? とチャーリーしか知らないはずなのだ。その他には知られてはいけないはずなのに。
のどが水分を欲している。からからにかわいた口からは情けない声が出てきた。
「それはどういう意味?」
「あのねえ、私をなめないでよ? 何年あんたの隣にいたと思ってんの。あんたは恋する女の顔をすることがある、それなのに浮かばれた表情をすることはないんだもの。そりゃあうまくいってないんだなってことくらい分かるっつーの」
なんだ、ばれたわけではなかったのか。
そうわかると今度は嬉しさがじわじわとこみあげてきた。私だけではなかった。明里もちゃんと私のことを見てくれてたんだ。むくわれないと言われたばかりだったが、はいまほんのすこしだけむくわれた気がした。
「で、だれが好きなの? 私の知ってるひと?」
「……明里もよく知ってるひと。だけど秘密!」
納得いかなそうに頬を膨らませる明里を前に、は笑顔の花を咲かせた。
その日の晩、はある人に電話をかけた。向こうが出るかどうかは見当もつかなかったが、出なかったときは留守電でよいとさえ考えていた。
五回目のコールあたりで一瞬音が止まった。電話は難なく通じたようだ。
「やあ、ちゃんから電話が来るなんて嬉しいな」
「こんばんはチャーリーさん。突然ごめんなさい」
「デートのお誘いってわけじゃなさそうだけど、なんかあったのかい」
相変わらず思ってもいないことが軽はずみに出てくる口だ、とは嘲った。
「いままでありがとう、でももう私に気をつかわなくていいよ。明里のこと、好きなんだったら」
チャーリーの気づかいがわからぬほど、はおろかではなかった。自分がいなければ、きっと二人はとうの昔に結ばれているはずなのだ。それでも最後にのこった意地が、付き合えばいい、ということばをこの口から紡がせることはしなかった。
「……ちゃんはいいのか」
「最近は明里のさみしそうな顔を見るほうがつらいの」
「きみは、強いね」
強い? 強くなんかない。きっとこれからもあなたに嫉妬するし、彼女を想って泣くこともあるだろう。だけど好きどうしになるだけが恋愛じゃないってわかったから。私は片思いを永遠に続けていくのだ。
結局、チャーリーは明里をどう思っているかについて一言も語らなかった。語る必要はないと考えたのかもしれない。
目をとじると、まぶたの裏に彼のにやけた顔が浮かび上がってきた。
「あんたに明里はもったいないのよ? ばーか」
澄んだ星空のしたで、は晴れやかな顔つきで毒を吐いてやった。