1
面倒なことになった、とミハエルはこめかみに指をあてた。
自分はただ普通に歩いていただけだった。前からやってきた二人の男を避けようと道の端に寄ったミハエルにはなんの非もなかった。なにが男たちの気に障ったのか。それは分からない。無いに等しい答えを探すより、この場をどう切り抜けるか考えるほうが得策だった。
せめてデュエルで片をつけられれば簡単だったのだ。しかし飾りのように腕につけられた男たちのデュエルディスクは展開される素振りを見せない。
次兄のように相手を挑発する度胸も、長兄のように相手を圧倒する威厳も、ミハエルにはなかった。もたもたして暴力に持ち込まれるのは自分の不利になるだけだ。ミハエルは妖精の羽のように美しいデュエルディスクを展開しようとした。
「なに勝手に動いてんだよっ!」
「うッ!」
――展開しようとした、次の瞬間にミハエルは殴りとばされていた。こぶしを突きつけられた頬がどくどくと熱をもつ。口の端が切れたのか、ほんのりと血の味が舌のうえを這いずった。
さらには殴られた拍子にデュエルディスクに衝撃が加わったらしい。あたりにはデッキが散乱していた。事態は悪化していくばかりだった。
「へへ、いいモン持ってんじゃねぇか」
「それに触るな……!」
足元に降ってきたカードを興味深そうに見て、大柄な男は下品な笑みを浮かべた。先史遺産デッキには父親との絆のカードも入っている。他人に気安く触れられて、指をくわえていられるほどミハエルは薄情になれなかった。
されど伸ばした腕は男には届かない。……屈辱だ。呪いをかけるかのように大男をねめつけると、ふっと視界に異物が入ってきた。
「お兄さんたちさ、決闘者ならデュエルで勝負しなよ。暴力に頼るなんて、実に動物的じゃないか」
大男の肩に天使が舞い降りた。ミハエルは一瞬本気でそう思った。
陶器のような肌に透き通った瞳。とうてい男には見えない少年だった。
空から突如降ってきた少年は手で大男の顎を固定し、脚を首にまきつけ、絞めあげた。呼吸器の自由を奪われたせいか、大男はその腕に力が入らないようで、少年を振りほどけずにいた。先ほど拾いあげられた先史遺産のカードがひらりとこぼれ落ちる。大男は満足に息ができず、その顔はみるみるうちに茹であがっていった。
突然のできごとに呆然と立ち尽くしていたもう一人の細い男は、仲間の危機に顔を青ざめた。そして少年につかみかかろうとがむしゃらに向かってくる。対して少年は落ちついた様子でタイミングを計っていた。
少年は大男のあたまに飛び乗り、しっかりと踏切りをすると、細い男にドロップキックをきめた。少年の両足を顔面で受けとめた男は、耐えきれずそのままうしろに倒れこんだ。
二人の男を地にねじ伏せた少年は顔色ひとつ変えないまま、膝をついて彼らに視線を合わせた。
「どう? デュエルで決着つける気になった? まあ、デュエルでも喧嘩でも僕が君たちに負けることはないけどね」
至極当然のことのように少年は言ってのけた。痛い目をみたばかりの男たちは、呪詛を吐き捨てながらも大人しく路地裏の闇にきえていった。
現実味のない現実に、ミハエルはしばし言葉を失っていた。少年の流れるような美しい動きに、ただただ見惚れていた。
少年が捨て置かれたままのカードに目をやる。おもむろに一枚拾いあげたかと思うと、今まで氷のように冷ややかだった彼の瞳が爛々とかがやいていった。
「先史遺産? このカード、君のだよね。もしかしてオーパーツが好きなのか?」
「……え、ああ。そうだよ。好きなんだ」
少年の声にやっとミハエルは我にかえった。思いのほか優しく話しかけられたことに困惑する自分とは裏腹に、目の前の少年はうれしそうに白い歯を見せた。
「奇遇だね! 僕も好きなんだ。僕のまわりにはこういうの好きな人いないから、なんだかうれしいよ」
はにかみながらカードを拾い集め、はいとミハエルに手渡す。受けとられたデッキを満足げに見つめると、「じゃあ」と言って少年は踵を返した。
向けられた小さな背中に、ミハエルはわずかな焦燥感を抱いた。ここで彼と別れてしまったら、もう二度と会えない気がする。少年を自分につなぎとめておく何かがほしい、と願ってしまった。
「僕とデュエルすれば動く先史遺産が見られるし、家にいけば少しだけど僕が持ってるオーパーツのレプリカも見せてあげられるよ!」
ぴたりと少年の動きが止まる。くるりと振り向く。うすい唇が弧を描いた。
「もしかして、僕のこと口説いてるの?」
すこし馬鹿にしたような調子の声だった。それでもその顔は満更でもないように赤らんでいる。もうひと押し、もうひと押しだ。
僕と、友だちになってくれませんか。
ミハエルが右手を差し出すと、少年は走り寄ってその手をとった。
「よろこんで」
ふわりと包みこむような柔らかい感覚に、ミハエルの心臓はどくんと脈打った。少年のまわりに春がきたような、あたたかい空気がながれる。
「ふふ、趣味がおなじ友だちができるのって初めてだ」
「僕はす……ミハエル。君の名前は?」
Ⅲと名乗りそうになって、あわてて口をつぐんだ。もう家族はとり戻せた。ミハエルにはもう名前を偽って生きる必要などなかったのだ。
そんなミハエルの様子は気にも留めず、少年はなにか思案しているようだった。そしてすこし躊躇して、
「……、」
と名乗った。。それはまるで女の子のような名前だった。自分の名前を口にしたの表情は曇っていたが、ミハエルはそれに気づかなかった。初めてできたおなじ趣味の友人というものに心を奪われていた。
それは少なからず、もおなじだった。これまでずっと否定されつづけてきた、自分の好きなもの。それを初めて分かち合えた相手。彼はいったい、どこまで自分を受け入れてくれるだろうか。
失ってしまうかもしれない未来への不安よりも、目の前にある幸福をつかみたかった。
2
それから二人はよくいっしょに遊ぶようになった。先史遺産のモンスターたちや、本のなかのまだレプリカさえ見ぬオーパーツに二人で心を震わせた。
一度ミハエルがを家に招いたところ、運悪く次兄と鉢合わせてしまって薄ら笑いを浮かべながらこちらの様子を窺われた。長兄もやたらとお茶やお菓子やらを運んでくるし、父に至ってはその小さい身を活かし、四男のふりをしてに挨拶してきた。家とはこんなに居心地の悪い場所だっただろうか。それきりミハエルが友人を家に連れていくことはなかった。
ミハエルにとってとすごす時間はとくべつ神聖なものだった。それは今いる図書館のおごそかな空気によるものではない。
彼のなかではふつうの人間とはすこし違っていた。これまでに異世界人を見てきたミハエルにはわかる。はたしかに人間であるが、並のそれとはかけ離れているのだ。目を離せばいなくなってしまいそうな、手を離してしまえば消えてしまいそうな儚さがあった。
そんなが人間らしい顔を見せるのはオーパーツに対してだった。
それがちょうど自分の好きなものと一致しているものだから、ミハエルはなんだか運命さえ感じていた。
「僕が言うのもなんだけど、オーパーツが好きだなんて珍しいよね」
二人でひとつの本を覗きこむ。はなにも気にしていない風であったが、ミハエルは心臓の高鳴りを隠すので精いっぱいだった。の顔が、ちかい。男どうしだというのに、へんに意識している自分が恥ずかしかった。
自分の心音がすぐとなりにいるに聞こえることを恐れ、ミハエルは沈黙を破った。その問いに彼はふるふると首を振る。
「僕はね、たくさんのことを知りたいだけなんだ。オーパーツは出自や制作過程なんか、謎だらけだろう。だからもっと彼らについて知りたくて、知りたくて、たまらないんだ。
オーパーツ以外にも知りたいこと、見てみたいものはもっとある。北極にある入口からいけると言われるアルザル、超古代文明と呼ばれるアトランティス、ムー、レムリア……みんなそんなものは存在しないなんていうけど、シュリーマンだってそう馬鹿にされながらもイーリオンを見つけたじゃないか」
彼はこんなに情熱的なひとだったのか。興奮しているのか、声にちからがこもっている。流れこんでくる言葉の海にミハエルは溺れてしまいそうだった。
しかしそれを助けるのもだった。酸素をあたえるように、彼は口をとざした。そしてたっぷりと間をとると、今度は声をひそめた。
「ほんとは将来、そんな謎を解き明かす冒険者になりたいんだ。科学者や考古学者は学会の目を気にすることになるから、オーパーツの解明なんかに向いていないし。
世界にはまだまだ僕の知らないものや、想像しえないことに満ちているんだ。僕はそのすべてを解き明かしにいきたい」
うっとりと物思いにふけるその瞳は、澄んだ空気の中で見える星空の輝きをたたえていた。その美しさにミハエルは生唾を飲みこんだ。
「きっと、ならできるよ!」
目の前の少年はなんでもそつなくこなしてしまうのだろう。ミハエルが彼の夢をそっと後押ししてやると、は表情を曇らせた。
「……ありがとう。そう言ってくれるのはミハエルだけだよ。家族にはそんな……夢を見るのはやめろって、反対されているからね」
肩をすくめて笑うその姿に、厚い厚い壁を感じた。はなにかを隠しているんじゃないか。ぜんぶ、ぜんぶ話してくれたらいいのに。そうは思えど、問いただす勇気などはさらさらなかった。詮索すればするほど、彼が自分の前からきえてしまいそうで怖かった。彼に近づきたいのに、近づいたら離れていきそうなジレンマに苛まれる。
「、約束するよ。僕はなにがあってもずっと傍で君を応援する」
心からの想いは、君に届いているだろうか。
「この本ももう読み終わっちゃったね」
「次はヴォイニッチ手稿に関する本を読もうよ。いつか二人であれを解読できたらいいな」
「さすがにでもそれは無理じゃないかな」
「そんな夢のないことを言うなよ。……ああ、あった。あそこだ」
ぱたりと本を閉じると、はすぐに新しい本を探した。彼の興味は底をつくことがなく、ミハエルはそんな彼を追うので精いっぱいになっていた。しかし不思議と煩わしさはなかった。まっすぐ好きなものに走っていく彼に、尊敬の念すら抱いた。
の目当ての本はすぐに見つかった。二人の身長をゆうに超えるほど高い本棚の一番上の段。古びれた本のなかでもそれはひときわ存在感を放っていた。
「大丈夫?」
「大丈夫さ、ほらっ」
ビール瓶入れをひっくり返して重ねただけの粗末な台にのり、は背伸びをした。膝丈までしかないズボンからちらちらと太ももが覗く。見てはいけないものを見ているようで、ミハエルはばつが悪そうに視線を落とした。
そんな彼の心境など露ほども知らず、ようやくお目当ての本に手が届いたはそれを棚から抜きとり、掲げてみせた。
「――、危ない!」
先ほど引き抜いた本につれられて不安定にずれた本たちが、雪崩のように落ちてくる。なにがなんだか分からないうちに、の背中はやさしく床に叩きつけられた。ばさばさばさ、と紙の広がる音が響く。
「み、ミハエル。どうして……」
「に怪我がなくてよかった」
あはは、と苦々しく笑うミハエルに戸惑いの視線が向けられた。どうしてと問われても、その答えはない。ただ、からだが動いてしまっただけなのだから。
を守るクッションにした自分の腕と、本を受け止めた背中が痛む。しかしここで顔に出してしまうのはなんとなく恥ずかしくて、ミハエルはなんでもないように振舞うことにした。
一方では、散らばった本を拾い集めるミハエルをしばし呆然と見つめていた。自分を守ってくれたその手が、背中が、やけに大きく頼もしいものに思えた。
「今日も楽しかったよ、次はいつあそぼうか」
太陽はとっくに西の位置へ移動している時刻となっていた。二人でいると、いつも時間を忘れて過ごしてしまう。夕日を背負うの髪の毛先はきらきらと橙の色に燃えていた。
「またね、ミハエル」
そう言って彼は、夕焼けのなかに溶けていった。
3
デュエルディスクを調整すると、カチャカチャと金属がすれあう音が響いた。今日ははじめてミハエルとがデュエルをする日だった。これまで何度かともに過ごす日はあったが、意外にもカードに触れる日はなかった。
オーパーツ好きなミハエルのデッキは言わずと知れた先史遺産である。対して、おなじオーパーツ好きのはなんのデッキを使うのだろうか。先史遺産とは違ったオーパーツデッキであると彼は言っていたが。
もうすぐ約束の三時だ。顔を上げると、こちらに向かって手を振るの姿があった。
「ミハエル、待たせてごめ――」
「……あら、あなたではなくて? ええ、私がを見間違うはずありませんわ」
ぽーん、ぽーんと三時を告げる鐘が鳴る。二人のあいだを裂くように、その言葉は投げかけられた。
驚いて振り返ると、そこには知った姿があった。神代凌牙の妹、神代璃緒が凛とした表情でこちらを見据えていた。否、正確にはを見ていた。彼女はと知り合いなのか。は驚いたように、困ったように眉根を寄せた。
「璃緒……体調よくなったんだね。おめでとう」
「ありがとう。まったく、目覚めたら学校にあなたがいないんですもの。私に断りなくやめるなんて!」
にも自分以外の友だちがいたのか、とミハエルはすこしばかり驚いてみせた。学校に通っていることやほかの友だちがいること、そんな当たり前のことも知らなかった。考えてみれば、について知っていることなんてほんの一握りだ。
「でも私はあなたがどんなに変わっても、こうして見つけられるわ。あの頃より随分かっこよくなりましたのね……それも、いつまでもつかしら」
そうしてみると、自分の知らないであろう彼を知っている神代璃緒が心底うらやましかった。
赤い瞳を細める彼女は妖艶で、のとなりにはよく似合っていた。そろって並ぶとそこには神秘的な空気が流れだしていた。
「も、もしかして二人は、その。恋人どうしだとか?」
どうしても気になって尋ねてみると、は苦虫を噛み潰したような顔をし、神代璃緒は小さくふきだした。
「そんな事実は今にも昔にもないよ」
「私とは友だちでしかありませんわ。まあ、が男なのなら、私に恋愛感情を抱いたってなにもおかしくはないけれど」
え。ミハエルはきょとんと目を丸めた。思考が追いつかない。
そんなミハエルの様子を見て、今度は璃緒が驚きの色を見せた。ミハエルと、怪訝そうに二人を交互に見やる。
「あなた、もしかしてなにもご存じないの? のこと……」
「やめろ璃緒」
ぴしゃり。雷のような鋭い声が発せられた。三人の世界だけ、時間が止まった。
息がつまるほど重くなった空気のなかで、自由に動けたのはだけだった。はくるりと踵をかえすと、すこしだけ寂しそうにミハエルに振り返った。
「今日はもう帰るよ。……じゃあね、ミハエル」
どくどくどく。嫌な予感がする。いつもなら「またね」と笑うが、今日はどこにもいない。
いますぐ走っていってその肩をつかんで引き止めたいのに、足は地に縫いつけられたかのように動かない。待って。叫ぼうとした喉はかわききって声が出ない。ひゅうと空気を取り込む音だけがもれた。
「……追いかけないの? このままじゃ、行ってしまうわよ」
それが単なる別れを指す言葉ではないくらい、ミハエルには分かっていた。神代璃緒が心配そうにこちらを覗きこんでくる。
「今の僕にはを追いかける資格なんてないよ」
すこしでも分かったつもりでいた。喧嘩が強くて、強い者にも臆せず立ち向かっていく勇気があって。いつでも冷静で頭の回転がはやいかと思えば、好きなものに関しては子どものように無邪気に近づいていって。とはそういう人間だと。友だちになったつもりで、分かったつもりでいた。
しかし、時折見せる愁いに満ちた目には見て見ぬふりをしてきた。自分が触れていいものではないと、勝手に線を引いて、それ以上踏み込まないようにして。
「僕はずっと逃げてきたんだ。を知ることを。うわべだけの関係で満足して、いや、満足するように自分に言い聞かせて。でもそれももうやめる。僕は、あの子のことをもっと知りたい……!」
「あの子自身の口から聞かなくてもいいの?」
そりゃあ、できるならその形が一番いいだろう。もっとゆっくり、氷を解かすように、が自分から話してくれるのを隣で待つことができたのならば。でもそんな時間はない。はきっと、待ってはくれない。
「いまのが素直に話してくれるとは思えない。でも僕は、今、知らなくちゃいけないんだ」
たとえ嫌われても、このまま後悔して終わるよりずっとずっとましだ。
貫くような強い視線を受けとめて、璃緒は微笑んだ。、あなた素敵な人と出会えましたのね。
4
「あの頃より随分かっこよくなりましたのね……それも、いつまでもつかしら」
耳の奥で先ほどの言葉が反芻する。璃緒の言わんとしていることもわかっているつもりだった。
どれだけ少年のまねごとをしようと、年を重ねるにつれ自分のからだは女性として完成されていく。いまはまだ少年として暮らせているが、それも時間の問題だった。自分のからだは丸みを帯びていく一方で、周りの男の子たちはほどよく筋肉がつき骨ばったからだになっていく。変声期がおとずれたって、喉仏が成長しないから低い声にはならない。
それでも、の心は男だった。
女の子扱いを受けるのはたまらなく苦痛だった。女としての自分を受け入れることができなかった。ふくらんでいく胸を見るたび、自分のからだに嫌悪した。
大人はそんな性の在り方を許さなかった。に女であることを強制した。ふりふりの服を着せて、ドールを買い与えて、それでもの意思は揺るがなかった。は男になったのではない。最初から男だったのだから、それが当然であった。
趣味を否定されたのもそれが原因だった。オーパーツが好きであることが家族にバレるや否や、猛反発をくらった。
「そんな男の子が好きになるようなものを、見るんじゃない!」
そうして何度も、の好きなものは奪われ、捨てられてきた。
否定され、拘束されてなお、自分を変えなかったにもひとつだけ迷いがあった。それは女性に恋心を抱かないことであった。もし自分がほんとうに男ならば、女性を好きになるのではないだろうか。もともと恋愛ごとへの興味がうすかったのもあるが、それにしたって好きになるのは男なのだろうなとぼんやり感じていた。まさか、気持ちの面では同性愛者なのか。その仮説はよりを混乱させる。
だって、ミハエルへのこの思いは。
ミハエルは自分よりもおおきな手だった。たのもしい背中だった。あんなに華奢な見た目をしているのに、やっぱり彼は男で、自分とは違うのだ。は心臓がぎゅうと握りつぶされる心地がした。
男として振る舞っていたにとってミハエルは初めての友だちだった。昔のを知っている友人たちは皆、自分が女であることを知っている。でもそれを知らないミハエルはずっと自分を男として接してくれていた。
それが嬉しくて、同時に申し訳なかった。友だちにずっと嘘をついて過ごしてきたのだ。そんなのは、友だちじゃない。もうミハエルに合わせる顔がない。
男にも女にもなりきれないわたしは、いったい何者なのだろう。
泥濘にはまっていくように、の意識は沈んでいった。
「――、……!」
ぼんやりとした光がさしこむ。ふかいふかい水の底から見えるのと同じくらい弱々しく、末広がりする光だった。それはこちらを飲みこむように近づいてきて、気づいたころには目の前がまっしろになっていた。
「、起きて。もう図書館も閉館の時間だよ」
やさしい声がまどろむ世界を終わらせる。ああ、光の正体は、やはり彼だった。
ぼんやりとかすむ視界には見慣れた景色がうつる。いつもの図書館だった。ミハエルと過ごした、たいせつな場所だ。ここに来るつもりなんてのなかにはなかった。しかし足が、心が、ここに来ることを自然に望んでいた。そしてそのまま眠ってしまっていたのだろう。まだ重たい頭をゆっくりもちあげる。
「璃緒に全部きいた?」
寝起きの舌たらずな口がまわる。ミハエルはきまりが悪そうにうなずいた。
「そう……僕はずっと君をだまして、君にうそをついてきたんだ。分かったろ? もう友だちでいる資格なんて僕にはないんだよ」
「それは僕だっておなじだ」
は目を瞠った。罵られるかと思った、軽蔑されるかと思った。でも違った。それどころか、彼は自分の罪を告白しはじめたのだった。
「僕はずるい。君がなにか隠しているのに気づいていたのに、見ないふりをしてきた。友だちなら相談にのるべきだったのに。僕は自分の心地よい空間をまもりたくて、君を見捨てていたんだ」
自嘲するようにミハエルは笑った。それでは、前と同じなのだ。間違いをおかしているその現実を直視せず、誰かのためと言い訳をつけていたあの頃と。でもそれではいけないから、彼は一歩踏みだした。
はふるふると首を振った。
「それは、ちがう。そんなの、ずるくもなんともないじゃないか」
ミハエルの言い分は自分とおなじ土俵の上にはなかった。彼の行為は決してだれかを傷つけるものではない。和を保つための思いやりである。
納得のいっていない様子のに、ミハエルは駄々をこねる子どもの影をかさねた。
「じゃあ、もうひとつずるいことを言うね」
の目にうつる自分は、けがれのない綺麗な姿をしていた。それがなんだか妙におかしくて、ミハエルは口元をすこしだけつりあげた。
「、僕は君が好きだよ。君といるとどきどきするし、からだが触れ合うと意識することもあった。これは君が女の子だと分かるまえから思っていたことだった。でも、伝えたのは君が女の子だって分かったから。きっとこれまで通り男の子として接していたならきっと言わなかっただろうね」
嫌われてしまっても仕方ない。神代璃緒の話によれば、は女の子として扱われることを心底嫌っているのだから。それでもこの思いだけはどうしても伝えておきたかった。
案の定、はいい顔をしなかった。困惑の色がありありとにじんでくる。
「璃緒にきいて知ってるんだろ。僕の心は男だ。……今は、君とそういう関係になることは到底かんがえられない」
言葉に淀みが生まれる。心は男であり体は女である自分が、まっとうな恋なんてできるはずがない。今この瞬間だってそう思っているはずなのに、これからも先ずっとそうであることを言い切ることはできなかった。
「それでいいよ」
そんなの葛藤をどうでもいいと切り捨てるように、ミハエルは即答した。
「女の子でも、男の子でもいいよ。。僕はずっと君のとなりにいたい。それは恋人や、夫婦としてでなくてもいい。友だちのままでいい。それでも、僕はの傍にいたいと願う。約束を果たさせて」
あの時の記憶がふわりとよみがえる。この図書館で夢を語った時の記憶だった。家族にも反対された夢を、後押ししてくれたのは。
――、約束するよ。僕はなにがあってもずっと傍で君を応援する。
途端、堰を切ったようにの目からは硝子のような滴がとめどなくあふれてきた。これまで抱えこんできたすべてのものを出しきるかのように、ぽろぽろとこぼしては床に水たまりを作っていった。
「……僕たちはふたりして友だちの資格をなくしちゃったね。
だからもう一度、ふたりで一からやりなおそう。すべてをここから新しくやりなおすんだ」
ミハエルは、すっと右手を差し出した。
とまることを知らない涙をそのままに、は首をかしげた。いつもは回転がはやいその頭も、今はまわっていないようだった。ミハエルは愛おしそうに頬をゆるめた。
僕と、友だちになってくれませんか。
答えを聞くまえに、ミハエルはの右手をつかんだ。きっとは、あの日とおなじ答えを返してくれるとわかっていたから。
くしゃりとしあわせそうに歪んだの顔は、今まで見たなによりもうつくしかった。
「よろこんで」