リクエスト作品:9尺さまありがとうございました!


1

 来客をしらせる聞きなれないチャイムにⅢはいち早く反応した。アールグレイの茶葉が入った缶のふたを丁寧にしめ、後の作業を長兄に託す。
 それにしても誰が訪ねてきたのだろうか。長い廊下をぱたぱたと駆けながらⅢは不思議に思っていた。家族4人で新しくやり直してから住みはじめたこの屋敷には来客なんて今までひとりもいなかった。それこそ新聞勧誘やセールスの類もその例に漏れない。では、いったい誰が。

 おごそかな扉をゆっくりと開ける。少々錆びた蝶番はしぶい音をたてた。
 外の世界の光がさしこみ、そのまぶしさにⅢはたまらず目を細めた。あいまいな視界でとらえたのはゆるやかな曲線をえがいたシルエットだった。ふわりとあまい、それでいてどことなく薬品のような人工的なにおいが鼻をかすめる。遠い日のなつかしいかおりだった。

「ミハエルくん、おっきくなったねぇ」
「……、さん?」

 もうながく口にしていない名前だった。あれはまだ、父であるバイロン・アークライトが呪いにかかる前の日常である。


 という女性は父のもとで研究の補助をしていた一人だった。よく父やⅤに連れられては家に遊びにくるお姉さん、というのがに対するⅢの印象だ。
 その職業柄のせいかには年相応の華やかさがなかった。学生の身分でありながら実習と銘打ってⅤと肩を並べてその実力を発揮していたのだ。そのため最先端の流行なんかにはとんと疎かった。
 それでもⅢにとってはその存在がめずらしかった。物心ついたころから家のなかには男しかいなかったのだ。家政婦なんかがいた時期もあったが、身ぎれいにした年のちかい女性が家にいることに違和感すらおぼえた。どう話しかければいいか、なにを話せばいいかわからなくて、最初は彼女のことが苦手であった。

 客人という立場でありながら、はよく動く人間だった。もてなしの紅茶は自分で淹れたがるし、茶うけの菓子は必ず持参した。
 カチャカチャと響く食器がすれあう音につられてⅢが顔をだす。が来た日はキッチンがにぎやかになる。普段あまり使われることのないそこが喜んでいるかのようだった。Ⅲはお湯がカップにそそがれるのをじっと見ていた。水がきらきらと光を反射させて、それを見ているⅢの目もかがやきに満ちた。

「……淹れ方、おしえてあげよっか?」

 おいで、と手招きされて近寄る。実はの淹れる紅茶はあまりおいしくなかった。茶葉に合わせた湯の温度、注ぎ方ひとつとっても完璧であるというのに、なぜか味がわるいのだ。彼女がやるとまるで薬を調合するように見えるのも大きな原因のひとつかもしれない。それなら、自分が淹れてやればいいだけだ。

「じゃあ、今度からは僕が紅茶淹れてあげるね」

 のやり方をおぼえよう。そして彼女においしいと言ってもらうんだ。

「楽しみにしてるね」

 木漏れ日が差しこむ昼下がりのような穏やかな空気がキッチンをつつみこむ。次に彼女が来るまでにたくさん練習しよう。カップの底にしずんだ茶葉がゆらゆらと遊んでいた。


 それからすぐに、父が失踪した。家族はばらばらに分断され、Ⅲとも約束を果たすことなく再会の機会を失った。とてもちいさな口約束だった。その約束をとくべつ意識していたわけではなかった。それでも今もこうして自分が家族のために紅茶を淹れているのは彼女の影響が少なからずあるからなのだろう。

「ここではなんですし、どうぞ上がってください。客間でお茶でも飲みながら話しましょう」
「やっとミハエルくんが淹れた紅茶が飲めるんだね。楽しみだな」

 口をついて出た、客人をもてなす常套句のような言葉には耳聡く反応した。手放しに喜んでみせる彼女をしり目に、Ⅲは驚きを隠せずにいた。あの約束をおぼえているのは自分のほうだけかと思っていたのだ。
 おぼえていたのですか。そう詰め寄ると、は不思議そうに首を傾げた。そんなのあたりまえじゃない。あの日とおなじ、昼のなかのようなあたたかい空気がながれた。


2

 慌ただしく戻ってきたⅢからの来訪を聞き、Ⅴはにわかに目を瞠った。その名を聞いたとき、会うのがなんだか恐ろしくなってしまったのだ。それは最後に見た彼女の瞳があまりにも暗かったからだと思う。そんなⅤの後暗い気持ちも知らず、Ⅲは彼の背中を押した。

「僕はさんにお茶を淹れるので、兄様は客間への案内をお願いしますね」

 弟はそうまくしたてると、さっさとその準備にとりかかった。心なしか浮き足立って見える弟に水を差すわけにもいかず、Ⅴはそっと台所を後にした。

 Ⅴとが知り合ったのは父のいる研究室であった。コネもなにもない彼女はその能力に高さから、異例の若さで研究者の一員として父と働いていた。研究者らしい、日に当たっていない不健康そうな肌色に、墨をこぼしたかのような隈が目の下を縁どっている。とても同い年の異性とは考えられず、当時のⅤは密かに口元を引きつらせたものだった。
 そんなとの間には取り立てて会話もなかったため、Ⅴは彼女という人間がどんな人物か推し量れないまま長い時間を過ごした。どちらかというと彼女は黙々と手を進めるほうで、研究時以外は人並みにしゃべるのだと知ったのは後の話である。

 そんなにも研究時に人間らしい一面を見せることがあった。それは父、バイロン・アークライトに話しかけられた時であった。

くん、ちょっといいかな」

 そうして呼びかけられると、はぴたっと動きを止め、すこし緊張したような面持ちで返事をした。青っ白い肌はほんのりと上気し、視線がさまよう。その意味を察し、ぎくりとしたが、Ⅴはすぐに首を振った。その日、Ⅴは初めて彼女を昼食にさそった。


は、父様のことが好きなのだろう」

 ぽろ、とフォークに刺したレタスが落ちた。唐突なその言葉を受けとめきれず、はしばしほうけていた。そして徐々に顔を赤く染め上げ、かと思えば普段より真っ青にしてこちらを窺ってきた。その忙しなさに思わず笑みがこぼれる。

「ご、ごめんなさい」
「え?」

 深々と頭をさげたにⅤは困惑した。謝罪の意味を噛み砕けないままでいると、は視線を落としたままに頭をあげた。

「自分の父親をそういう思いで見てる女がおなじ職場にいるなんて、気持ちわるいですよね」

 そうひどく痛ましい声をだすものだから、意外とずるいところがあるらしい。これが無意識下でなされたなら尚更である。顔をあげるように言うと、こちらに彼女が思うような感情がないとわかっても、変わらず視線は下がったままだった。
 仮面が剥がれるかのようにさらけだされていく彼女の正体に、Ⅴは満足していた。思えば興味が好意に変わったのもここからだったのかもしれない。研究中には見ることのない、の人間らしさを引きだしてやりたくなったのだ。

「今度うちに来るといい。きっと父も弟たちも喜ぶ」
「私なんかが行っても、ご迷惑よ」

 喜ぶかと思われたその提案はによってバッサリと切り捨てられてしまった。申し訳なさげにゆらめく瞳を見ていると、こちらが言いしれぬ不安に駆り立てられるようであった。Ⅴにとっては夕暮れのような哀愁をただよわせる女性だった。この引っ込み思案をなんとか言いくるめて家に招くことに成功したのはそれから一月後のことであった。

 来てしまえばやはり彼女は歓迎されたし、足繁く通うようにもなった。そうして親交をふかめていたからこそ父が失踪したことを告げるときにはひどく心が痛んだ。父の失踪を知れば、泣くかもしれない。そんなⅤの予想とは裏腹に、は一滴の涙も見せなかった。ただ世界の色をうしなったかのように呆然と立ち尽くすのみで、ようやく「そう」と蚊のなくような声で言った。程なくして、Ⅴも彼女の前から姿をくらました。


 それからの彼女がどこでどのように暮らしていたかはⅤの知り及ぶところではない。ただ、眼前にいる彼女が元気そうであることに安堵した。長い廊下の先から現れたⅤには控えめに手を振る。

「クリス、久しぶり」
「また君に会えて嬉しいよ」

 相変わらず不健康そうな容姿であった。あの頃よりもすこし痩せたように感じられ、いっそう不安をかきたてられるほどだ。

「せっかく来たんだ。ゆっくりしていってほしい」

 あいまいな言葉しかかけられなかった。彼女は微笑んでうなずくばかりで、あの日のことを聞いてくる素振りはなかった。しかし礼儀として、父が生還したことだけでも伝えなければ。Ⅴが口を開くと、はにこやかに言葉を重ねた。

「もう知ってる」


3

 幼き日のⅣにとって、という存在は不穏分子であった。彼にとっての家族とは父と兄弟たちだけである。家族ではない者が家のなかに土足で踏み込んでくることで、今まで自分たちが築いてきたなにかが壊されるのではないかと懸念していた。
 もちろんそれはⅣの杞憂で終わることとなる。もともと訪れる頻度がすくなかったこともあり、が家庭を荒らすことはなかった。ひっそりと溶けこみ、こっそりと分離する。そのような言い方がしっくりくるくらいにはは薬にも毒にもならなかったのだ。

 開かれた扉の向こうにいる人物に、Ⅳは動揺していた。てっきり弟が茶をいれて帰ってきたものだと思っていたからだ。兄が連れてきた懐かしい顔に弾かれ、Ⅳはソファから飛び降りた。父を呼んでくると言って踵を返した背中を見届けて、Ⅳは

「お前、もしかしてなのか?」
「そうだよ、久しぶりだね。といっても一時期よくテレビで見たからトーマスくんとは久しぶりな感じしないや」

 それはが一方的にそう思っているだけであり、こちらとしては彼女の情報などこれまで一切なかったのだから紛うことなく久しぶりの再会である。Ⅳは内心舌打ちした。
 家庭を荒らすことなく自分たちの家を訪ねてきたが、ひとつだけ荒らしたものがある。それはⅣの心のずっと奥にあるやわらかいところだった。今でこそファンが増え、周囲に女性がいる場面も多くなったが、幼き日に関わった異性はただ一人であった。何度やさしく差し伸べられたその手を振り払おうとも、けして彼女はめげなかった。排他的なおさない心はゆるやかに絆されていくこととなったのだ。

「よくこの家がわかったな」
「今日はね、バイロン先生に誘っていただいたの」
「……父さん、あんたの連絡先知ってたんだな」
「うん、私もびっくりした。もう会えないのかと思っていたから」

 一家が離れ離れになり、心に傷を負ったのはどうやら目の前の彼女もおなじようだった。うすく伏せられた睫毛がぱちぱちと瞬く。親しくしていた者が突然いなくなる悲しみは痛いほどわかる。しかしそれに対する悼みや慰めの言葉をⅣがなげかけることはなかった。元来、そういう性質は持ち合わせていないし、彼女の内側にふかく踏み込むことは躊躇されたのだ。
 あの日々から変わらず、との距離の詰め方がわからないままであった。がどう過ごしてきたのか。気にはなるがⅣにそれを問う勇気はなかった。

「頭のいい学者さまがこんな家にきて楽しいのかよ? 研究所にいた方がずっと面白いだろ」

 むしろ口をついて出るのはこんな嫌味くらいで、自分ながらになぜこんなことを、とも思うがこのくらいが自分らしいと納得できるほどにⅣは自分の性分を受け入れていた。嫌味を嫌味ととらえていないのか、嫌味を受け流しているのか、はただ微笑った。どんな言動も事象も静かにつつみこむ夜のような笑い方だった。自分の他者に鋭くあたる性格が受け入れられるような感覚がなんだかむず痒くて、しかしそれはけして不快ではなかった。

「適当に座れよ」

 つまらなそうに背を向けたⅣに、はまた笑ってみせるのだった。


4

 ずず、と淹れたての紅茶をすする。Ⅲは自分で淹れたお茶の味がわからないほどには緊張していた。自分より身長が縮み、変声期がくる前の高い声をもつようになった父の姿をはなにも言わずに受けいれている。Ⅳも気にしているのか、が持ってきた茶受けの小さなクッキーをいつまでも咀嚼している。

「またこうしてと皆ですごす日がくるとは思わなかったよ」
「ほんと、私もびっくりです」

 からからと笑うトロンとに、兄弟たちは曖昧に笑うだけだった。まるで数年の空白が嘘かのような自然な交流であった。まさか2人が、というかがこんなに父と会話をもてていることがⅤには新鮮だった。あの頃はあんなにたどたどしかったのに。

 トロンがまだ本来の姿であった頃、とは毎日のように研究室で顔を合わせていた。初めて彼女と出会った日は、こんなに幼い少女が自分と肩をならべて仕事をすることができるなんて思ってもいなかった。研究中の彼女からは静謐な朝の空気を感じた。尋常ではない集中力を帯びる少女のまわりの世界は日常とは切り離されていた。それがなんだか心地よくて、自身も安心して研究にのめりこむことができていたのを昨日のことのように覚えている。

「今日もお疲れさまでした」

 とっくに日が暮れた時間だというのに、彼女は疲れを感じさせない笑顔で一日を締めくくる。それがまた晴れやかな朝を思わせて、清々しい少女というのがの印象であった。

「また明日」

 こちらがそう言うと、なまっ白い頬が上気していく。年端もいかぬ少女からの好意に気づかぬほど鈍感ではなかったが、応えてやるほど優しくもなかった。ずいぶんと長い時間、から目を背けてきた気がする。しかしどうしても視界の端から消えてはくれなくて、懐柔されたのはいつだっただろうか。
 バイロン先生。今となってはその名を呼ぶのは彼女くらいだろう。トロンはその声に誘われるかのようにゆっくりと瞼を開けた。眼前にはあの頃の少女が、女性となって微笑んでいた。変わってしまった。自分も、彼女も。

「あのお話、なさらないんですか?」
「ああ、今しようと思っていたところだよ」

 がそう促すと、兄弟たちはそろって首をかしげた。きっと彼らは驚くだろう。若返ったのはからだだけではなかったらしい。取り戻しつつあるトロンの感情は悪戯心によってさらに成長していく。むずむずと込み上げる笑いをおさえ、トロンは口をひらいた。

「今日からがボクたちの家族に加わるよ」

 は照れくさそうに、うれしそうにはにかむ。一方で息子たちはどうだろうか。誰ひとりとして事実をうまく飲み込めていないようだった。それもそうだろう。今までそういった素振りはいっさい見せてこなかったのだから。オリジナルのナンバーズをもつ少年に負け、復讐をやめた後、ふたりは偶然の再会を果たした。
 この姿で現れたことにはじめは戸惑っていたようだが、会話を重ねるうちに自分のなかのバイロンと一致したのだろう。は泣き崩れて無事を喜んでくれた。ぼたぼたと落ちていく涙に、気づかないふりをしていた気持ちがとかされていくようだった。

さんとⅤ兄様は同い年ですよね。どっちが姉で兄なんですか…!?」
「Ⅲ、問題はそこではないよ」
「ああ、は養子じゃなく妻として迎えるからその心配は不要だよ」
「えっ、マジかよ……俺はぜってぇ反対だからな!」
「そうだよね。私のことを家族だなんて見れないよね……」
「ちが、そうじゃなくて……クソッ! 勝手にしろ!」

 なんて不憫な。ⅤとⅢから哀れみの視線をうけるⅣを尻目に、トロンとはサプライズが成功して満足そうに笑いあっていた。

Page Top
inserted by FC2 system